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西湖より包頭まで 2 江南の風物 -02 杭州西湖
農地がなくなって林地に入るとこれはまた驚くべし、
両側すべて墓地、古墳新塚さまざまなのがある。
界標がある、旌表牌の立派なのがある、
方甎を畳み壇をつくって堂々たる兆域(第十二図参照)を営んだのがあれば、
訪ふ人もなき荒墳の離たるものもあり、
瓦葺の殯舎に十以上の戸前があって鍵のかかったなかにむなしく留置かれている仏もあるらしい。
やがて霊隠寺につく、
『水経注』には
「浙江東逕霊隠山、山在四山之中、有高崖洞穴、山下有銭塘故県」
とある所、『漢書地理志』の武林山に当たる。
けだし湖北諸山の総名であったのを今この寺が襲うているのだ、
一名雲林寺といい、晋咸和元年(326)僧慧理が建てたというから、とても古い寺だというべきである。
その後唐代に廃寺となったのを、呉越王が僧延寿に銘じて再建さしたとの事、
南宋になって高宗孝宗、しばしばここに幸して禅院五山の第二位に置かれる事になった。
山門を入って一町右に寺門がある、覚皇殿以下髪賊の乱にことごとく炎上したのを光緒に再建したのでまだ木の香もあたらしい、
薬師三尊には二丈にも達する立像があって金箔燦爛としている、
彫刻はさほど立派ではないが殿後に廻るとこれはまた面白い地獄極楽の幼稚な見せ物が作ってある。
....続きます....
~>゜)~<蛇足という名の言い訳>~~
諸事情あり、連載中断していました。
本格再開のワンステップになればと、
中断前までに書いたものをUPしておきます。
清波門を出で湖畔を西に雷峰塔に上る、夕照山上の壮観であるが赤い磚が半ばやぶれて雑木が生えているのが却って面白い、
五代の呉越王妃黄氏が建てたもので黄妃塔とも称せらる、
五級八角の古塔、最初は千尺十三層の計画であったとの事、
仏の螺髻髪を蔵したという。
残念なことに我等の見物したこの塔は9月25日崩れたそうな、
見上げた時にも危ない形であった、
塔を西に下ると南屏山下の浄慈寺で雷峰塔と創立の時を同じくせる古刹、
呉越王銭宏が周顯徳元年(954)建立した寺で、我国の弘法大師もここに留錫したという。
寺前に南屏晩鐘亭がある西湖十景の一。
寺は乾隆御題の正法眼蔵の額にふさわしい落付きのある霊域である、
ここで山内の香積厨という寺へ案内される、
何かと見れば古井戸の底に木の株が浮かしてある、
燭を点じてこれを示めし運木の古井だという、
僧同済が通力でここから建築材を運びだしたというのだ。
翟灝の湖山便覧を見ると名勝古蹟にしてこの附近に記されてあるものが多いが、何分8月の日盛り日光が肌をさすように熱い、
そこそこ車上の人となって、西湖の周縁を西に大廻りをする。
杭州は西湖か、西湖は杭州かと云わるる所、
その周囲30支里、水深10尺内外四周連巒、炭紀の石炭岩及砂岩から成立した天竺山の余脈が西境に蟠り 南に九曜山、北に棲霞岺をひかえ、一草一木すべて文人墨客の何とかしたという所で、
湖中の孤山から白堤糸の如くに東して、
後湖と外湖を分ち、蘇堤の西を走ること数マイル、
田があり畑があり閑静な農村がある、
こんな所に自然をぶちこわした洋館の別荘があったりするのが眼につく。
~>゜)~<蛇足>~~
文中に、雷峰塔が倒れたことが書いてありますが、
倒れたのは1924年9月25日、著者が訪れたのは1924年8月です。
~>゜)~<蛇足2>~~
「(浄慈寺)寺前に南屏晩鐘亭がある西湖十景の一」。
そして雷峰塔の「雷峰夕照」も西湖十景の一つです。
「南屏晩鐘」と「雷峰夕照」の画像は
「百度百科」の「西湖十景」 から
西湖より包頭まで 2 江南の風物 -02 杭州西湖 前編
禹貢の揚州当時は草莽の地、春秋に越。
戦国に楚に属し秦の会稽郡銭塘県となり、
漢代に会稽郡西部都尉の地所であったが、
隋唐に杭州余杭郡といい、
五代には銭鏐が呉越国を建て、
宋に入って再杭州の名を襲うた、
建炎三年以後南宋の都となって京師臨安府といい。
元代は杭州路といい明清これに倣うて杭州府を置いた。
隋唐以後地方の風気大に開け、有名な白居易は穆宗の時刺史となって銭塘江の治水に成績をあげ、
宋代には范仲淹が皇祐年間(1049-1054)の知州、
蘇軾が熙寧以後通判となり元祐(1085-1095)に知州となった所で、
湖中には今も白公堤蘇公堤の名を残している、
当時は実に支那文物の中心であったが、1129年以後南宋の首都として末年には文天祥の如き名臣を知府にした歴史がある。
十三世紀にマルコポーロが着てKinsayの記事を書きThe City of Heavenと称賛したのであったが、これは今も諺に云う『上に天堂地に蘇杭という語の意訳でキンサイとあるのは京師の転訛だとの事である。
ポーロの旅行は北京から運河に沿うて南下し鎮江、蘇州、杭州をへ福州を通り、泉州から海路波斯に出たのであるが、支那のこれらの都邑の記事を余程詳細に書いている、
臨安は宋の亡んだ翌々年1237年大火に逢ったのであるけれども、大運河の終点として当時尤も有力なる港市であったから、直に恢復してポーロが来た1291年頃には、輪奐の美或は今日以上であったかもしれない。
何となれば今の杭州は咸豊十一年長髪賊の乱にあい、其後四年間に数度の兵焚をうけたので、今日に至っても旧態完からずと称されているほどであるからである。
車站を降りるとすぐ前の広場に雲集する囂々たる苦力の中から人力車を拾って、直ちに東西の大街を歓楽巷に出て太平坊を南下し、小平巷を西に呉山に上る。
道の狭さ、二間とは無い、石で畳んだ町の凸凹と、不潔な両側の町家の燻った屋根を見るとこれが天堂かと疑われる、
租界は城の北、武林門外約2マイル。大運河の最南端拱宸橋一帯の地にあって、下関条約で開港した所、そこ迄ゆけば街路も広く整然として、洋館なども見られるのであろうが、
ここ城内であるから始めての観光客にこれはひどいと思わしむるが、さて呉山の第一峰に上るとやっぱり美わしい都である、
明の太祖ならずともこの形勢の地に立って百万の瓦を下に遠く銭塘江をながめ、脚下に西湖の碧水を隔てて、遥かに天目諸山の峩々たるを見る時、誰か三嘆せざらんやである。
城隍廟黄潤寺などの寺観あるも見るべき価値少なければやがて下山。
~>゜)~<蛇足>~~
長髪賊の乱: 「太平天国の乱」のことです。
~>゜)~<蛇足2>~~
杭州の歴史については、かなり前に友達向けに書いたものがあります。
興味のある方はどうぞ→ 「ぽんずの杭州の歴史」
~>゜)~<蛇足3>~~
ご参考までに東方見聞録はこちらを読んでいます。
『完訳 東方見聞録〈1〉 (平凡社ライブラリー)』
『完訳 東方見聞録〈2〉 (平凡社ライブラリー)』。
この水車の外に江南の野に目をひくものがも一つある。
それは墳墓である、
田と云わず畑と云わず村落に近づくと円い土の墳墓を見る、
中には松柏の緑のかげに祠堂があり、あるいは円墓の美はしきを並べた特定の墳墓もあるが、
普通は至る所の田圃に無暗に円墳を作るものらしい、
見れば木棺を地上に置き藁屋根をきせたに止まるものもあれば、
棺の周囲に子煉瓦を集め重ねたものもある、いづれにしても円墳でない粗末なことだ。
重葬の国にこれは不思議と尋ねて見ると、
通訳の王氏は曰く長幼の序を失いて先立てるもの、あるいは風水により相令家の言に従い、
土葬し得ざるものの墓である
しばらく土上に置くゆえにこれを権厝(ケンツウ)というと、
厝にして終に葬られず、半ば腐朽せるものもある。
他郷の人偶ま死して葬ること能わず、しばらく帰郷の期を待つ間殯することもある、
これは殯舎とて風をよけたる立派な建築物に鍵をかけた所で
屍体預所とでもいわるべき所であるがこれは田舎にはない、
したがって厝に逢うものは余程不運と諦めねばならぬ、
北支那では円墳の前に石碑のあるのが多いが、江南ではそれが少ない、
しかしそのもっとも丁重なるものは墳塋の堂々たる千金を費やして及ばざるものも少なくない、
硤石駅の小さい丘の上にあるものの如き尤も優れたるものの一つである。
嘉興からさきは所々に古代の火成岩の山があって、土地も高いから水田は変じて桑圃となる、
我が国の刈桑のようなのは見当たぬが、高作りで其の葉の瑞々しき茂りを見ると、
さすが養蚕の本場に来たと思わしむる。
臨平駅に着く前にはじめて江南の大運河を横ぎる、
幅もせまく水も濁っているが、民船の輻輳は盛んなものだ。
ついで杭州城壁を見る艮山門は北にあり、東へ廻って城壁を破って清泰門内の停車場につく、
ここで下車いよいよ杭州見物に入る。
~>゜)~<蛇足>~~
かつて、初めて北京から離れたときに、
南に行けば行くほど、田畑や丘などに墓が増えてるのに驚いた記憶があります。
著者が田畑などにあるお墓について興味深く書いていますが、
かつて、東北本線の鈍行列車に乗り合わせた某国留学生にはやりお墓について聞かれました。
あちらこちらに見かけますがいったい何なのか、外国の方にはわかりませんよね。
民家を見ると多くは瓦葺で牆壁も壁も、同じ形の煉瓦で以て、一廓に築き上げ、
たまには草葺のものもあるが煉瓦に意匠をこらして屋根の端をそらしているのが多い、
それよりも眼につくのは母屋の両側、破風に当たる所に凸形左右三段に抽んでた白壁を立て、
屋根よりも高く超越して其の頂と両肩に古屋根を置いた隔壁の形である、
意匠をこらさ遺て中々振ったものがある。夕日をうけた其の屋並のけしきは格別だが、
これは田舎のみでなく、町家にもあって上海では波形の隔壁が多い。
江南の町はこれがある為めに、展望すると人家櫛比して、いかにも景気がよく見える、
しかも画趣に富んでいて、同時に火災の蔓延を防ぐ利がある。
我国奈良平野の民家の多くが急峻な藁屋根の母屋を立てて、
その両側に瓦で葺いた隔壁をつくっているのもこの江南の風を移したものであるらしい、
あの国中の高い屋根と白壁が生駒葛城の翠緑にふさわしいように、
江南の民家の隔壁は塔と橋との国に似つかわしい趣を占めている、
ついでにいうが、近畿の都邑にはこの隔壁の名残をとどめて隣の家と家との境目即二階の両端に、
目かくし様の羽建(ウダチ)をつけている所が多い、
古い城下町などことに丁寧に出来たのを見受ける、
これも支那文化の影響の名残であるとかつて内藤博士から教えられたことを思い起す。
ただしこの江南の屋根の形は山東から大連附近迄に拡がっているが、
直隷に入るとまったく趣が変ずる、これも亦注意すべき事実である。
森と塔と民家の屋根とに離れると、あとは一面の田圃、縦横に横はれる運河溝渠、行けども行けども其の状は変らず。これら浦涇溝渠の揚子江又は黄埔に通ずるものは黄濁をなし民船の往来を見るが、中には全く澄みきった清水の渠がある、図を案ずれば澱山湖に通ずるものである。
江南一帯これらの渠の水面は田の面よりも3尺ないし6尺位低いのが例である。
見渡す限りの田の面は稲の結実期で灌漑の最重要な時期であるから、
この低い清水を田の中に汲み入れるために、
男が三人もかかって一の水掲車を踏んでいるものもあるが、
多くは牛に水車を曳かしている。
それは龍車と称するもので魏の馬鈞が紀元三世紀頃に発明したもの、
蘇軾の水車の詩に自ら註して江浙間人木水車為龍骨車と記した所のもので
あるいは翻車ともいい千数百年の農具である。
田の大さは60間に10間2反内外もある長方形が多い、
株裁にした稲が我国の水田と同様に秀でていると、
これに沿うた溝によって、一つの田に一つの龍車が取りつけてある、
それが列をなして円い草屋根が十数個も並んで、中に婦人又は子供が牛の番をする、
牛は車のふちを倦まず倦まず歩む、
車が回わると軸につけてある連綴の木板が回転して槽の下から水を上方に送りだすのであって、
誠に太平の風致である。江南の糧はかくの如く半ば牛馬の灌漑によってつくられる。
龍骨車