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Pengzi de 雑記帳
中国に関する雑記、備忘や以前すんでいた北京・蘇州の思いでなどなど
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兔児爺 -老舎 『兔児爺』より

私は落ち着いていることが好きなので、旅行は苦手だ。そのため自然と訪れた場所や見たことのあるものなどは少なくなってくる。兔児爺という玩具についてもいくつも見たことがあるわけではない。

いくらか知っているのは北方のいくつかの街、北平、天津、済南、青島だ。これら四つの有名な街では、秋になると、街頭には兔児爺が並べられる。これは山東の人たちが兔の王と呼んでいる泥人形だ。兔児爺または兔の王は泥で作られている。兔頭人身で、背後に紙で作った旗を挿しているものや、頭上を紙でできた傘で覆っているものもある。種類が多く、精巧にできているものは北平のもので、山東のものは型が少なく、技術も粗雑だ。

泥人形は元々種類が多いのだけれど、丈夫ではないのであまり細かく作られてはいない。子供に買い与えるものであるから、ちょっとぶつけると粉々になるものに誰だって多くのお金を出して買いやしない。兔児爺は泥人形の一種ではあるけれど、売られているのは八月の節句前の半月の間ぐらいで、月餅と同様にその時々の季節のものなので、少し精巧に作られている。そのため子供たちは兔児爺を気軽に卓上に置き、普通のおもちゃにしている泥人形のように気軽に扱うのではなく、ぶつけて壊さないように気を付けて扱う。このように兔児爺は特別な地位を与えられて、一年に一度きれいに街頭に登場するのだ。

中秋がまた来る。北平などの兔児爺はどんな様子だろうか?
…以下省略
テキストは:
「北京乎」
三聯書店



老舎 (1899-1966): 北京生まれで、八旗の「正紅旗」出身。
代表作:『駱駝祥子』『四世同堂』『正紅旗下』『龍鬚溝』『茶館』


~>゜)~<蛇足>~~
兔児爺は、中秋のお月見のときに飾る泥人形。
兔の将軍といった感じです。
どんなものかは「泥人形:兔児爺」をご覧ください。
ちなみに今年(2013年)の中秋節(八月十五日)は9月19日です



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掃晴娘 -汪曾琪 『私の家』より

雨は相変わらず降り続いている。
従姉は紙を切ってつくった人形を壁に貼り付けた。人形は片手に箕を、もう片手には箒を持っている。
風が吹くと、揺ら揺らと揺れる。
これが掃晴娘だ。
ほんとうに不思議なことに、掃晴娘は一日空を掃き
二日目には少しだったが晴れになった。

?年
テキストは:
「北京乎・現代作家筆下的北京(1919-1949)」
三聯書店



汪曾琪 (1920-1997): 最後の士大夫といわれた文人。


~>゜)~<蛇足>~~

中国版てるてる坊主の掃晴娘について調べていたときに出会った文章です。
芥川龍之介 『北京日記抄』より: 五 名勝




 万寿山。自動車を飛ばせて万寿山に至る途中の風光は愛すべし。されど万寿山の宮殿泉石は西太后の悪趣味を見るに足るのみ。柳の垂れたる池の辺に醜悪なる大理石の画舫あり。これも亦大評判なるよし。石の船にも感歎すべしとせば、鉄の船なる軍艦には卒倒せざるべからざらん乎。

 玉泉山。山上に廃塔あり。塔下に踞して北京の郊外を俯瞰す。好景、万寿山に勝ること数等。尤もこの山の泉より造れるサイダアは好景よりも更に好なるかも知れず。

 白雲觀。洪大尉の石碣(せきけつ)を開いて一百八の魔君を走らせしも恐らくはこう言う所ならん。霊官殿、玉皇殿、四御殿など、皆槐(えんじゆ)や合歓(ねむ)の中に金碧燦爛(さんらん)としていたり。次手に葡萄架後の台所を覗けば、これも世間並の台所にあらず。「雲厨宝鼎(うんちゅうほうてい)」の額の左右に金字の聯(れん)をぶら下げて曰、「勺水共飲蓬莱客、粒米同餐羽士家(勺水(しやくすい)共に飲む蓬莱の客(きゃく)、粒米同じく餐羽士(さんうし)の家(いえ)」と。但し道士も時勢には勝たれず、せつせと石炭を運びいたり。

 天寧寺。この寺の塔は隋の文帝の建立のよし。尤も今あるのは乾隆二十年の重修なり。塔は緑瓦を畳むこと十三層、屋縁は白く、塔壁は赤し、--と言へば綺麗らしけれど、実は荒廃見るに堪えず。寺は既に全然滅び、只紫燕の乱飛するを見るのみ。

 松筠庵(しよういんあん)。楊椒山(ようしょうざん)の故宅なり。故宅と言へば風流なれど、今は郵便局の横町にある上、入口に君子自重の小便壷あるは没風流も亦甚し。瓦を敷き、岩を積みたる庭の前に諌草亭(かんそうてい)あり。庭に擬宝珠の鉢植え多し。椒山の「鉄肩担道義、辣手著文章(鉄肩道義を担い、辣手(らつしゅ)文章を著す)」の碑をランプの台に使いたるも滑稽なり。後生、まことに恐るべし。椒山、この語の意を知れりや否や。

 謝文節公祠。これも外右四区警察署第一半日学校の門内にあり。尤もどちらが家主かは知らず。薇香堂なるものの中に畳疊山(じょうざん)の木像あり。木像の前に紙錫(しじゃく)、硝子張の燈籠など、他は只滿堂の塵埃のみ。

 窑臺(ようだい)。三門閣下に昼寢する支那人多し。満目の蘆萩(ろてき)。中野君の説明によれば、北京の苦力(クウリイ)は炎暑の候だけ皆他省へ出稼ぎに行き、苦力の細君はその間にこの蘆萩の中にて売婬するよし。時価十五銭内外と言う。

 陶然亭。古刹慈悲浄林の額なども仰ぎ見たれど、そんなものはどうでもよし。陶然亭は天井を竹にて組み、窓を緑紗にて張りたる上、蔀(しとみ)めきたる卍字(まんじ)の障子を上げたる趣、簡素にして愛すべし。名物の精進料理を食いおれば、鳥声頻(しきりに)に天上より来る。ボイにあれは何だと聞けば、--実はちょっと聞いて貰えば、郭公(ほととぎす)の声と答えたよし。

 文天祥祠。京師府立第十八国民高等学校の隣にあり。堂内に木造並に宋丞相信国公文公之神位なるものを安置す。此処も亦塵埃の漠々たるを見るのみ。堂前に大いなる楡(にれ)(?)の木あり。杜少陵ならば老楡行(ろうゆこう)か何か作る所ならん。僕は勿論発句一つ出来ず。英雄の死も一度は可なり。二度目の死は気の毒過ぎて、到底詩興などは起らぬものと知るべし。

 永安寺。この寺の善因殿は消防隊展望台に用いられつつあり。葉卷を啣へて殿上に立てば、紫禁城の黄瓦(くこうが)、天寧寺の塔、アメリカの無線電信柱等、皆歴々と指呼すべし。

 北海。柳、燕、蓮池、それ等に面せる黄瓦丹壁の大清皇帝用小住宅。

 天壇。地壇。先農壇。皆大いなる大理石の壇に雜草の萋々(せいせい)と茂れるのみ。天壇の外の広場に出ずるに忽(たちまち)一発の銃声あり。何ぞと問えば、死刑なりと言う。

 紫禁城。こは夢魔のみ。夜天よりも厖大なる夢魔のみ。

大正十年(1921年)


龍之介が訪ねた観光名所ですが、当人はそういうところよりも、芝居を楽しんでいたような気がしますね。


芥川龍之介 (1892-1927:)
この文章は、龍之介が大阪毎日新聞社の依頼により大正十年(1921年・中華民国十年)3月下旬から七月上旬まで中国を旅したときの北京滞在中の日記だが、『「支那游記」自序』によると、「一日に一回ずつ書いたわけではない訣ではない」とのこと。

テキストは:
「上海游記・江南游記」
講談社文芸文庫


芥川龍之介 『北京日記抄』より:四 胡蝶夢



 波多野君や松本君と共に辻聴花先生に誘われ、昆曲(こんきょく)の芝居を一見す。京調(けいちょう)の芝居は上海以来、度たび覗いても見しものなれど、昆曲はまだ始めてなり。例の如く人力車の御厄介になり、狹い町を幾つも通り抜けし後、やっと同楽茶園と言う劇場に至る。紅に金文字のびらを貼れる、古き煉瓦造りの玄関をはいれば、--但し「玄關をはいれば」と言うも、切符などを買いし次第にあらず、元来支那の芝居なるものは唯ぶらりと玄関をはいり、戲を聴くこと幾分の後、金を集めに来る支那の出方に定額の入場料を払ってやるを常とす。これは波多野君の説明によれば、つまるかつまらぬかわからぬ芝居に前以て金など出せるものかと言う支那的論理によれるもののよし。まことに我等看客には都合好き制度と言はざるべからず。扨(さて)煉瓦造りの玄関をはいれば、土間に並べたる腰掛に雑然と看客の坐れることはこの劇場も他と同樣なり。否、昨日梅蘭芳(メイランフアン)や楊小楼を見たる東安市場の吉祥茶園は勿論、一昨日余叔岩(よしゅうがん)や尚小雲(しょうしょううん)を見たる前門外の三慶園よりも一層じじむさき位ならん。この人ごみの後を通り二階棧敷に上らんとすれば、酔顏?(だ)たる老人あり。鼈甲の簪(かんざし)に辮髮を卷き芭蕉扇を手にして徘徊するを見る。波多野君、僕に耳語して曰、「あの老爺(おやじ)が樊半山(はんはんざん)ですよ。」と。僕は忽ち敬意を生じ、梯子段の中途に佇みたるまま、この老詩人を見守ること多時。恐らくは当年の酔李白も--などと考えし所を見れば、文学青年的感情は少くとも未だ国際的には幾分か僕にも残りおるなるべし。

 二階棧敷には僕等よりも先に、疎髯(そぜん)を蓄へ、詰め襟の洋服を着たる辻聴花先生あり。先生が劇通中の劇通たるは支那の役者にも先生を拝して父と倣(な)するもの多きを見て知るべし。揚州の塩務官高洲太吉氏は外国人にして揚州に官たるもの、前にマルコ・ポオロあり、後に高洲大吉ありと大いに氣焔を吐きいたれど、外国人にして北京に劇通たるものは前にも後にも聴花散人(ちょうかさんじん)一人に止めを刺さざるべからず。僕は先生を左にし、波多野君を右にして坐りたれば、(波多野君も「支那劇五百番」の著者なり。)「綴白裘(てっぱくきゅう)」の両帙(りょうちつ)を手にせざるも、今日だけは兎に角半可通の資格位は具えたりと言うべし。(後記。辻聴花先生に漢文「中国劇」の著述あり。順天時報社の出版に係る。僕は北京を去らんとするに当り、先生になお邦文「支那芝居」の著述あるを仄聞(そくぶん)したれば、先生に請うて原稿を預かり、朝鮮を経て東京に帰れる後、二三の書肆に出版を勧めたれど、書肆皆愚にして僕の言を容れず。然るに天公その愚を懲らし、この書今は支那風物研究会の出版する所となる。次手を以て広告すること爾(しか)り。)

 乃ち葉卷に火を点じて俯瞰すれば、舞台の正面に紅の緞帳(どんちょう)を垂れ、前に欄干をめぐらせることもやはり他の劇場と異る所なし。其処に猿に扮したる役者あり。何か歌をうたいながら、くるくる棒を振りまわすを見る。番附に「火焔山」とあるを見れば、勿論この猿は唯の猿にあらず。僕の幼少より尊敬せる斉天大聖孫悟空ならん。悟空の側には又衣裳を着けず、粉黛を装わざる大男あり。三尺余りの大団扇を揮つて、絶えず悟空に風を送るを見る。羅刹女(らせつじょ)とはさすがに思はれざれば、或は牛魔王か何かと思い、そっと波多野君に尋ねて見れば、これは唯煽風機代りに役者を煽いでやる後見なるよし。牛魔王は既に戦負けて、舞台裏へ逃げこみし後なりしならん。悟空も亦数分の後には一打十万八千路、--と言つても実際は大股に悠々と鬼門道へ退却したり。憾むらくは樊半山(はんはんざん)に感服したる余り、火焔山下の大殺を見損いしことを。

 「火焔山」の次は「胡蝶夢」なり。道服を着たる先生の舞台をぶらぶら散歩するは「胡蝶夢」の主人公荘子ならん。それから目ばかり大いなる美人の荘子と喋喋喃喃(ちょうちょうなんなん)するはこの哲学者の細君なるべし。其処までは一目瞭然なれど、時々舞台舞台へ現るる二人の童子に至つては何の象徴なるかを明かにせず。「あれは荘子の子供ですか?」と又ぞろ波多野君を悩ますれば、波多野君、聊(いささ)か唖然として、「あれはつまり、その、蝶蝶ですよ。」と言う。しかし如何に贔屓眼に見るも、蝶蝶なぞと言うしろものにあらず。或は六月の天なれば、火取虫に名代を頼みみしならん。唯この芝居の筋だけは僕も先刻承知なりし為、登場人物を知りし上はまんざら盲人の垣覗きにもあらず。今までに僕の見たる六十有余の支那芝居中、一番面白かりしは事実なり。抑(そもそも)「胡蝶夢」の筋と言へば、荘子も有らゆる賢人の如く、女のまごころを疑う為、道術によりて死を装い、細君の貞操を試みんと欲す。細君、荘子の死を嘆き、喪服を着たり何かすれど、楚の公子の来り弔するや、……

 「好(ハオ)!」

 この大声を発せるものは辻聴花先生なり。僕は勿論「好!」の声に慣れざる次第でも何でもなけれど、未だ曾て特色あること、先生の「好!」の如くなるものを聞かず。まず匹(ひつ)を古今に求むれば、長坂橋頭蛇矛(だぼう)を横えたる張飛の一喝に近かるべし。僕、惘(あき)れて先生を見れば、先生、向うを指(ゆびさ)して曰、「あすこに不准怪声叫好と言う札が下つているでしょう。怪声はいかん。わたしのように『好!』と言うのは好いのです。」と。大いなるアナトオル・フランスよ。君の印象批評論は真理なり。怪声と怪声たらざるとは客観的標準を以て律すべからず。僕等の認めて怪声と倣(な)すものは、--しかしその議論は他日に讓り、もう一度「胡蝶夢」に立ち戻れば、楚の公子の来り弔するや、細君、忽(たちまち)公子に惚れて荘子のことを忘るるに至る。忘るるに至るのみならず、公子の急に病を発し、人間の脳味噌を嘗めるより外に死を免るる策なしと知るや、斧を揮って棺を破り、荘子の脳味噌をとらんとするに至る。然るに公子と見しものは元来胡蝶に外ならざれば、忽飛んで天外に去り細君は再婚するどころならず、却って悪辣なる荘子の為にさんざん油をとらるるに終る。まことに天下の女の為には気の毒千万なる諷刺劇と言うべし。--と言へば劇評位書けそうなれど、実實は僕には昆曲の昆曲たる所以さえ判然せず。唯どこか京調劇よりも派手ならざる如く感ぜしのみ。波多野君は僕の爲に「?子(ぼうし)は秦腔(しんこう)と言うやつでね。」などと深切に説明してくるれど、畢竟馬の耳に念仏なりしは我ながら哀れなりと言わざるべからず。なお次手に僕の見たる「胡蝶夢」の役割を略記すれば、荘子の細君--韓世昌、荘子--陶顕亭、楚の公子--馬夙彩(ばしゅくさい)、老胡蝶--陳栄会等なるべし。

 「胡蝶夢」を見終りたる後、辻聴花先生にお礼を言い、再び波多野君や松本君と人力車上の客となれば、新月北京の天に懸り、ごみごみしたる往来に背広の紳士と腕を組みたる新時代の女子の通るを見る。ああ言う連中も必要さへあれば、忽--斧は揮はざるにもせよ、斧よりも鋭利なる一笑を用い、御亭主の脳味噌をとらんとするなるべし。「胡蝶夢」を作れる士人を想い、古人の厭世的貞操観を想う。同楽園の二階棧敷に何時間かを費したるも必しも無駄ではなかったようなり。

大正十年(1921年)


今回の中国の旅の間に、龍之介は60余の芝居を見たという... すごいですね。

「ハオ!」という掛け声は、「ブラボー!」のようなものです。


芥川龍之介 (1892-1927:)
この文章は、龍之介が大阪毎日新聞社の依頼により大正十年(1921年・中華民国十年)3月下旬から七月上旬まで中国を旅したときの北京滞在中の日記だが、『「支那游記」自序』によると、「一日に一回ずつ書いたわけではない訣ではない」とのこと。

テキストは:
「上海游記・江南游記」
講談社文芸文庫


芥川龍之介 『北京日記抄』より: 三 什刹海



 中野江漢君の僕を案内してくれたるものは北海の如き、万寿山の如き、或は又天壇の如き、誰も見物するもののみにあらず。文天祥祠も楊椒山(ようしょうざん)の故宅も、白雲観も、永楽大鐘も、(この大鐘は半ば土中に埋まり、事実上の共同便所に用いられつつあり。)悉(ことごとく)中野君の案内を待って一見すると得しものなり。されど最も面白かりしは、今日中野君と行って見たる什刹海(じっさつかい)の遊園なるべし。

 尤(もっと)も遊園とは言うものの、庭の出来ている次第にはあらず。只大きい蓮池のまわりに、葭簾(よしず)張りの掛茶屋のあるだけなり。掛茶屋の外には針鼠だの大蝙蝠だのの看板を出した見世物小屋も一軒ありしように記憶す。僕らはこう言う掛茶屋にはいり、中野君は玫瑰露(まいかいろ)の杯を嘗め、僕は支那茶を啜りつつ、二時間ばかり坐っていたり。何がそんなに面白かりしかと言えば、別に何事もあった訣にはあらず、只人を見るのが面白かりしだけなり。

 蓮花は未だ開かざれど、岸をめぐる槐柳(かいりゅう)の陰や前後の掛茶屋にいる人を見れば、水煙管(みずぎせる)を啣えたる老爺あり、双孖髻(そうじけつ)に結える少女あり、兵卒と話している道士あり、杏(あんず)売りを値切っている婆さんあり、人丹(仁丹にあらず)売りあり、巡査あり、背広を着た年少の紳士あり、満洲旗人の細君あり、--と数え上げれば際限なけれど、兎に角支那の浮世絵の中にいる心ちありと思うべし。殊に旗人の細君は黒い布か紙にて作りたる髷とも冠とも付かぬものを頂き、頬にまるまると紅をさしたるさま、古風なること言うべからず。その互いにお辞儀をするや、膝をかがめて腰をかがめず、右手をまっ直に地へ下げるは奇体にも優雅の趣ありというべし。成程これまでは観菊の御宴に日本の宮女を見たるロティイも不思議の魅力を感ぜしならん。僕は実際旗人の細君にちょっと満洲流のお辞儀をし、「今日は」と言いたき誘惑を受けたり。但しこの誘惑に従わざりしは、少くとも中野君の幸福なりしならん。僕らのはいりしかけ茶屋を見るも、まん中に一本の丸太を渡し、男女は断じて同席することを許さず。女の子をつれたる親父などは女の子だけを向う側に置き、自分はこちら側に坐りながら、丸太越しに歌詞などを食わせていたり。この分にては僕も敬服の余り、旗人の細君にお辞儀をしたとすれば、忽ち風俗壊乱罪に問われ、警察か何かへ送られしならん。まことに支那人の形式主義も徹底したものと称すべし。

 僕、この事を中野君に話せば、中野君、一息に玫瑰露を飲み干し、扨徐(さておもむろに)語って曰(いわく)、「環城鉄道と言うのがあるでしょう。ええ、城壁のまわりを通っている記者です。あの鉄道を拵える時などには線路の一部が城内を通る、それでは環城にならんと言って、わざわざ其処だけは城壁の中へもう一つ城壁を築いたですからね。兎に角大した形式主義ですよ。」

大正十年(1921年)


文章の中にも「旗人の細君」の写真を入れてみましたが龍之介があまりにも興味を持っていたのでもう一枚


芥川龍之介 (1892-1927:)
この文章は、龍之介が大阪毎日新聞社の依頼により大正十年(1921年・中華民国十年)3月下旬から七月上旬まで中国を旅したときの北京滞在中の日記だが、『「支那游記」自序』によると、「一日に一回ずつ書いたわけではない訣ではない」とのこと。

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