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日本人は北平においても活気溢れている。金持ちはお上の後ろに集まり、貧しいものは法令下なんとか先進的な位置にへばりついているいるといったように。
東城のある胡同では、たくさんの着飾った日本人子女が見受けられる。また東安市場の日本人の購買力は特筆するに値する。
そして、日本人の中国恋慕の根幹は、北平にあるようだ。
河北省政府が「新生活運動」を繰り広げるなか、特に注意したのが生活の日本式の生活をいかに排除するかということであった。しかし弁当を携えること、冬にマスクをかけることなど排除できないことがある。
194?年冬
テキストは:
「北京乎・現代作家筆下的北京(1919-1949)」
三聯書店
彭子岡 (1914-1988): ジャーナリスト、作家。
~>゜)~<蛇足>~~
はっきりと何年と書かれていないので、前後の文章から何年なのか後ほど考証したいと思います。
かつて北京にはたくさんの日本人が住んでいたといいます。特に東城区に多かったようで、私も何度か東城区のあたりをご案内したことがあります。
この文章から見るに、マスクは日本から中国に行ったのでしょうか。お弁当などやはり中国の人たちにも便利だったのでしょうね。
一人の友達がヨーロッパから戻り、北京にはヨーロッパ各国には見られないこういった十の特別な部分があると話してくれた。
1.戒厳のときでなくても街中には銃を持った警官が溢れ市民を威嚇している。
2.一本のとてもよい新華街といった通りが、城壁までで行き止まり。
3.自動車がとても狭い通りで人ごみにぶつかったとしても、警官はそれを止めようとはしない。
4.位の高い軍人が馬にも乗らず、自動車に乗って敵前に向うかのごとく走っている。
5.十二、三才の子供や、六十数才の老人が通りで人力車を引いているが、警察はそのことに口を挟まない。
6.風が吹き砂埃が空を蔽っても、人力で水をまくだけで、給水車を使う事はない。
7.城内城外のほとんどは車が通れる路だが、主要道だる前門橋だけは高さが安定しない石敷きの道だ。
8.「公園」と名前が付いているのに、入場券を買わなければ入場できない。
9.総統府の前や軍司令部の前が通行禁止になっている。
10.安定門外の糞溜の臭さは、天下一だ。
1919年6月1日
テキストは:
「北京乎・現代作家筆下的北京(1919-1949)」
三聯書店
中国近代史上とても重要な人なので、ご存知の方も多いと思います。あちこちに紹介されていますので、詳しくは、中国史関係の資料をご参照ください。有名な著作に「独秀文存」、「文義類例」、「実庵自伝」など。
~>゜)~<蛇足>~~
1919年に書かれた文章。ということは五四運動の直後で、北京の十の欠点を書き連ねています。
時代がよくわかります。
10番目には笑ってしまいましたが、ちなみに安定門は、かつてし尿の運び出しがなされていた門です。
…前略…
そよ風が吹くと、あたり一面の白い柳絮がくるくると転がり、次第に球状をなし、壁の隅に押しやられる。まだ空いっぱいに舞う綿のような小さな塊は、しばしばあなたの顔にへばりつき、鼻の穴を無理やり塞いでしまう。
…後略…
1934年11月3日
テキストは:
「北京乎・現代作家筆下的北京(1919-1949)」
三聯書店
福建省出身の作家、文学者。学生時代に五四運動に参加。瞿秋白らと「新社会」を創刊。文学研究会を主宰したり、商務印書館で編集に携わる。1931年からに北京大学などで教鞭をとるかたわら、研究にもいそしむ。著書に、「挿画本中国文学史」、「中国俗文学史」など
~>゜)~<蛇足>~~
どこかに柳絮について書いたものがないかと、本を繰っていたところ鄭振鋒の「北平」という文章の中に本の少しですが、触れられていました。「中学生」という雑誌に載せられた文章で、北京の四季を中心に名勝などが書かれています。
柳絮についてはたったこれだけ触れられているだけで、ちょっと不満が残るのですが、出だしには「春北京にやってきたら…」黄砂の出迎えを受けることが書かれていて、とても面白いです。黄砂についての部分は、また別途ご紹介します。
おおよそ北平を訪れたことのある人は、彼女について深い印象をだれもが持っているだろう。北平を離れて後も、しばしば彼女を思い起こさない人はいないだろう。
北平は、人それぞれにとっての恋人のようで、また母親のようだ。そんな彼女は一種の不可思議な魔力で他所から来た旅人たちを惹きつけている。北平に住んでいるときにはまだ何とも感じないが、一旦離れると、すぐさま何とも言いようのない彼女への思いがわきあがってくるのだ。どこに行ったとしても、いつも北京より良いところはないと感じてしまう。……
[中略]
……北平は純朴だ。私達がどこでなにをしても、どこに住んでも、何の気なしに古い破れた服を着たとしても、人々の嘲笑を買いはしない。出かけるときに車に乗らず歩いても、家に帰ってトウモロコシの粉で作った麺を食べようが、高粱の饅頭を食べようが、皮肉を言う人はだれもいない。だから北平を訪れた人はだれもが、貧富を問わずに彼女を賛美し、恋しく思うのだ。
1947年秋北平にて
テキストは:
「北京乎・現代作家筆下的北京(1919-1949)」
三聯書店
謝冰瑩 (1906-2000): 湖南省出身の女流作家。北伐に参加、「従軍日記」を発表。1935年には早稲田大学に留学するも、半日分子として逮捕される。中国に戻り、抗日戦線に参加、「抗戦日記」を著す。教鞭を各地でとった後、1948年台湾へ、師範大学で教鞭をとる。退職後アメリカにわたり、アメリカで死去。代表作は「女兵自伝」。
「ある女性兵士の自伝」、「二つの家庭」が日本語訳されており、「中国現代文学珠玉選・小説3 女性作家選集」(二玄社、2001.3.20出版)で読むことができます。
~>゜)~<蛇足>~~
著者は湖南出身ですが、北京で勉強したことも、教鞭をとっていたこともあり、北京がとても好きな人だったようです。北京を「彼女」といっていますが、北京は「我的母親」といわれるように、女性のようです。
この文章を読んだときに、下手な事を書かなくてもすんだ!と私も思いました。とはいえ、うまく訳せたとは思いませんが...。
間、著者の好きな理由など書かれているのですが、今回は略しました。そんなに長い文章ではないので、機会を見て、全文をご紹介したいと思います。