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西湖より包頭まで 2 江南の風物 -02 杭州西湖 前編
禹貢の揚州当時は草莽の地、春秋に越。
戦国に楚に属し秦の会稽郡銭塘県となり、
漢代に会稽郡西部都尉の地所であったが、
隋唐に杭州余杭郡といい、
五代には銭鏐が呉越国を建て、
宋に入って再杭州の名を襲うた、
建炎三年以後南宋の都となって京師臨安府といい。
元代は杭州路といい明清これに倣うて杭州府を置いた。
隋唐以後地方の風気大に開け、有名な白居易は穆宗の時刺史となって銭塘江の治水に成績をあげ、
宋代には范仲淹が皇祐年間(1049-1054)の知州、
蘇軾が熙寧以後通判となり元祐(1085-1095)に知州となった所で、
湖中には今も白公堤蘇公堤の名を残している、
当時は実に支那文物の中心であったが、1129年以後南宋の首都として末年には文天祥の如き名臣を知府にした歴史がある。
十三世紀にマルコポーロが着てKinsayの記事を書きThe City of Heavenと称賛したのであったが、これは今も諺に云う『上に天堂地に蘇杭という語の意訳でキンサイとあるのは京師の転訛だとの事である。
ポーロの旅行は北京から運河に沿うて南下し鎮江、蘇州、杭州をへ福州を通り、泉州から海路波斯に出たのであるが、支那のこれらの都邑の記事を余程詳細に書いている、
臨安は宋の亡んだ翌々年1237年大火に逢ったのであるけれども、大運河の終点として当時尤も有力なる港市であったから、直に恢復してポーロが来た1291年頃には、輪奐の美或は今日以上であったかもしれない。
何となれば今の杭州は咸豊十一年長髪賊の乱にあい、其後四年間に数度の兵焚をうけたので、今日に至っても旧態完からずと称されているほどであるからである。
車站を降りるとすぐ前の広場に雲集する囂々たる苦力の中から人力車を拾って、直ちに東西の大街を歓楽巷に出て太平坊を南下し、小平巷を西に呉山に上る。
道の狭さ、二間とは無い、石で畳んだ町の凸凹と、不潔な両側の町家の燻った屋根を見るとこれが天堂かと疑われる、
租界は城の北、武林門外約2マイル。大運河の最南端拱宸橋一帯の地にあって、下関条約で開港した所、そこ迄ゆけば街路も広く整然として、洋館なども見られるのであろうが、
ここ城内であるから始めての観光客にこれはひどいと思わしむるが、さて呉山の第一峰に上るとやっぱり美わしい都である、
明の太祖ならずともこの形勢の地に立って百万の瓦を下に遠く銭塘江をながめ、脚下に西湖の碧水を隔てて、遥かに天目諸山の峩々たるを見る時、誰か三嘆せざらんやである。
城隍廟黄潤寺などの寺観あるも見るべき価値少なければやがて下山。
~>゜)~<蛇足>~~
長髪賊の乱: 「太平天国の乱」のことです。
~>゜)~<蛇足2>~~
杭州の歴史については、かなり前に友達向けに書いたものがあります。
興味のある方はどうぞ→ 「ぽんずの杭州の歴史」
~>゜)~<蛇足3>~~
ご参考までに東方見聞録はこちらを読んでいます。
『完訳 東方見聞録〈1〉 (平凡社ライブラリー)』
『完訳 東方見聞録〈2〉 (平凡社ライブラリー)』。