甍の黄色い紫禁城を繞った合歓や槐の大森林、--誰だ、この森林を都会だなどと言うのは?
大正十年(1921年)
かつて北京はとても緑に恵まれた土地だったそうです。
この文章を読んで、この時期... 民国十年ごろはまだそうだったのだろうな... とおもいました。
芥川龍之介 (1892-1927:)
この文章は、龍之介が大阪毎日新聞社の依頼により大正十年(1921年・中華民国十年)3月下旬から七月上旬まで中国を旅したときの絵葉書に記した訪問地の感想をまとめたもの。
テキストは:
「上海游記・江南游記」
講談社文芸文庫
居庸関、弾琴峡を一見せる後、万里の長城へ上り候ところ、乞食童子一人、我等の跡を追いつつ、蒼茫たる山巒(さんらん)を指して、「蒙古! 蒙古!」と申し候。然れどもその偽りなるは地図を案ずるまでも無之候。いっぺんの銅銭を得んが為に我等の十八史略的ロマン主義を利用するところ、まことに老大国乞食たるに愧じず。大いに敬服仕り候。但し城壁の間にはエエデル・ワイズの花なども相見え、如何にも寨外へ参りたるらしき心もちだけは致し候。
大正十年(1921年)
”我等の十八史略的ロマン主義”... 大いに納得した一言でした...
芥川龍之介 (1892-1927:)
この文章は、龍之介が大阪毎日新聞社の依頼により大正十年(1921年・中華民国十年)3月下旬から七月上旬まで中国を旅したときの絵葉書に記した訪問地の感想をまとめたもの。
テキストは:
「上海游記・江南游記」
講談社文芸文庫
京師第二監獄を参観。無期徒刑の囚人が一人、玩具の人力車を拵えていた。
大正十年(1921年)
京師XXというのうのは今で言う首都XXということばです。
首都第二監獄を芥川龍之介が見に行ったのでしょうね...
短期間の滞在でしたが、貪欲にあちらこちらをみてまわったのでしょうね。
芥川龍之介 (1892-1927:)
この文章は、龍之介が大阪毎日新聞社の依頼により大正十年(1921年・中華民国十年)3月下旬から七月上旬まで中国を旅したときの絵葉書に記した訪問地の感想をまとめたもの。
テキストは:
「上海游記・江南游記」
講談社文芸文庫
僕--おや、飛行機が飛んでいる。存外君はハイカラだね?
北京--どう致しまして。ちょっとこの前門(チェンメン)をご覧ください。
大正十年(1921年)
この文章がかかれたころには、前門のあたりでも飛んでいる飛行機が見られたのでしょうね。
芥川龍之介 (1892-1927:)
この文章は、龍之介が大阪毎日新聞社の依頼により大正十年(1921年・中華民国十年)3月下旬から七月上旬まで中国を旅したときの絵葉書に記した訪問地の感想をまとめたもの。
テキストは:
「上海游記・江南游記」
講談社文芸文庫
日本人は北平においても活気溢れている。金持ちはお上の後ろに集まり、貧しいものは法令下なんとか先進的な位置にへばりついているいるといったように。
東城のある胡同では、たくさんの着飾った日本人子女が見受けられる。また東安市場の日本人の購買力は特筆するに値する。
そして、日本人の中国恋慕の根幹は、北平にあるようだ。
河北省政府が「新生活運動」を繰り広げるなか、特に注意したのが生活の日本式の生活をいかに排除するかということであった。しかし弁当を携えること、冬にマスクをかけることなど排除できないことがある。
194?年冬
テキストは:
「北京乎・現代作家筆下的北京(1919-1949)」
三聯書店
彭子岡 (1914-1988): ジャーナリスト、作家。
~>゜)~<蛇足>~~
はっきりと何年と書かれていないので、前後の文章から何年なのか後ほど考証したいと思います。
かつて北京にはたくさんの日本人が住んでいたといいます。特に東城区に多かったようで、私も何度か東城区のあたりをご案内したことがあります。
この文章から見るに、マスクは日本から中国に行ったのでしょうか。お弁当などやはり中国の人たちにも便利だったのでしょうね。