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その後、懐古本を購入、
そして第三段!!! 昔懐かしの魔法瓶を購入しました。
ポットというよりも魔法瓶という日本語の方が似合ってます。
サイズはミニサイズ(800ミリリットル)。
かつては2リットルものを使っていましたが、
今はそんな大きな容量必要ないので小さいものにしました。
ちなみにサイズの違いは、高さが違うだけでほかのサイズは一緒です。
あと2リットルのものにはぶら下げるタイプのハンドルが付いていましたが
これにはついてません。
~>゜)~<蛇足>~~
同じ時代を知っている夫に
「サイズやたらと小さくないか?」
と言われました。
そういえば、ぶら下げるタイプのハンドルが付いてませんね。
このサイズではいらないももですね。(*^^*)
清波門を出で湖畔を西に雷峰塔に上る、夕照山上の壮観であるが赤い磚が半ばやぶれて雑木が生えているのが却って面白い、
五代の呉越王妃黄氏が建てたもので黄妃塔とも称せらる、
五級八角の古塔、最初は千尺十三層の計画であったとの事、
仏の螺髻髪を蔵したという。
残念なことに我等の見物したこの塔は9月25日崩れたそうな、
見上げた時にも危ない形であった、
塔を西に下ると南屏山下の浄慈寺で雷峰塔と創立の時を同じくせる古刹、
呉越王銭宏が周顯徳元年(954)建立した寺で、我国の弘法大師もここに留錫したという。
寺前に南屏晩鐘亭がある西湖十景の一。
寺は乾隆御題の正法眼蔵の額にふさわしい落付きのある霊域である、
ここで山内の香積厨という寺へ案内される、
何かと見れば古井戸の底に木の株が浮かしてある、
燭を点じてこれを示めし運木の古井だという、
僧同済が通力でここから建築材を運びだしたというのだ。
翟灝の湖山便覧を見ると名勝古蹟にしてこの附近に記されてあるものが多いが、何分8月の日盛り日光が肌をさすように熱い、
そこそこ車上の人となって、西湖の周縁を西に大廻りをする。
杭州は西湖か、西湖は杭州かと云わるる所、
その周囲30支里、水深10尺内外四周連巒、炭紀の石炭岩及砂岩から成立した天竺山の余脈が西境に蟠り 南に九曜山、北に棲霞岺をひかえ、一草一木すべて文人墨客の何とかしたという所で、
湖中の孤山から白堤糸の如くに東して、
後湖と外湖を分ち、蘇堤の西を走ること数マイル、
田があり畑があり閑静な農村がある、
こんな所に自然をぶちこわした洋館の別荘があったりするのが眼につく。
~>゜)~<蛇足>~~
文中に、雷峰塔が倒れたことが書いてありますが、
倒れたのは1924年9月25日、著者が訪れたのは1924年8月です。
~>゜)~<蛇足2>~~
「(浄慈寺)寺前に南屏晩鐘亭がある西湖十景の一」。
そして雷峰塔の「雷峰夕照」も西湖十景の一つです。
「南屏晩鐘」と「雷峰夕照」の画像は
「百度百科」の「西湖十景」 から
一年でも一番暑い時期です。
大暑の七十二候は
一候: 腐草化蛍
二候: 土潤溽暑
三候: 大雨時行
蛍が出てきて、蒸し暑い、にわか雨の降る季節です。
この時期は三伏の中伏にあたり、
文字通り一年で一番暑い時期でもあります。
大暑には伏茶を飲む習慣があるとか。
知らない習慣だったので調べてみたところ浙江省温州のあたりの習慣として有名だそうです。
伏茶とは
金銀花(スイカズラの花)、夏枯草(ウツボグサ)、甘草(カンゾウ)等等を煮出したハーブティーのこと。
昔は六月初から八月末までの夏の間、凉亭が設けられ、そこで無料で振る舞われたそうです。
注)「茯茶」も「伏茶」といったりするそうですが別物です。
~>゜)~<蛇足>~~
大暑の日本の七十二候は
初候:「桐始結花」(きりはじめてはなをむすぶ)
次候:「土潤溽暑」(つちうるおうてむしあつし)
末候:「大雨時行」(たいうときどきふる)
初候以外は同じです。
ちなみに「腐草為蛍」(くされ たるくさ ほたるとなる)は
日本では芒種の次候になっています。
日本と中国の違いとして面白いですね。
~>゜)~<蛇足2>~~
伏茶とは違いますが、北京の清涼「酸梅湯」を飲みました。
本当なら、「緑豆湯」のほうがいいのでしょうが...
大暑の画像は百度百科から
古本ネット『孔夫子旧书网』で衝動買い。
『日常中国(50/60/70/80/90年代老百姓的日常生活)』(江蘇美術出版社)
80年90年だけでよかったのですが、
セットしかなかったし...
買ってから、「どうしよう!!」と(^^ゞ
でも、見たいしなぁ.....
もっと安いセットもあったのですが...
~>゜)~<蛇足>~~
出品が南京だったという事もあるのですが、
昨日オーダーして、今日届きました。
楽しんでいるところです。
マグカップを買ったお店の店員さんと話して、
昔がとても懐かしくなってしまい思わず購入したのですが、
届いて早速、楽しんでいます。
~>゜)~<蛇足>~~
かつて『老照片』という昔の写真を集めた書籍が流行りましたが、
このシリーズはそのたぐいの本です。
西湖より包頭まで 2 江南の風物 -02 杭州西湖 前編
禹貢の揚州当時は草莽の地、春秋に越。
戦国に楚に属し秦の会稽郡銭塘県となり、
漢代に会稽郡西部都尉の地所であったが、
隋唐に杭州余杭郡といい、
五代には銭鏐が呉越国を建て、
宋に入って再杭州の名を襲うた、
建炎三年以後南宋の都となって京師臨安府といい。
元代は杭州路といい明清これに倣うて杭州府を置いた。
隋唐以後地方の風気大に開け、有名な白居易は穆宗の時刺史となって銭塘江の治水に成績をあげ、
宋代には范仲淹が皇祐年間(1049-1054)の知州、
蘇軾が熙寧以後通判となり元祐(1085-1095)に知州となった所で、
湖中には今も白公堤蘇公堤の名を残している、
当時は実に支那文物の中心であったが、1129年以後南宋の首都として末年には文天祥の如き名臣を知府にした歴史がある。
十三世紀にマルコポーロが着てKinsayの記事を書きThe City of Heavenと称賛したのであったが、これは今も諺に云う『上に天堂地に蘇杭という語の意訳でキンサイとあるのは京師の転訛だとの事である。
ポーロの旅行は北京から運河に沿うて南下し鎮江、蘇州、杭州をへ福州を通り、泉州から海路波斯に出たのであるが、支那のこれらの都邑の記事を余程詳細に書いている、
臨安は宋の亡んだ翌々年1237年大火に逢ったのであるけれども、大運河の終点として当時尤も有力なる港市であったから、直に恢復してポーロが来た1291年頃には、輪奐の美或は今日以上であったかもしれない。
何となれば今の杭州は咸豊十一年長髪賊の乱にあい、其後四年間に数度の兵焚をうけたので、今日に至っても旧態完からずと称されているほどであるからである。
車站を降りるとすぐ前の広場に雲集する囂々たる苦力の中から人力車を拾って、直ちに東西の大街を歓楽巷に出て太平坊を南下し、小平巷を西に呉山に上る。
道の狭さ、二間とは無い、石で畳んだ町の凸凹と、不潔な両側の町家の燻った屋根を見るとこれが天堂かと疑われる、
租界は城の北、武林門外約2マイル。大運河の最南端拱宸橋一帯の地にあって、下関条約で開港した所、そこ迄ゆけば街路も広く整然として、洋館なども見られるのであろうが、
ここ城内であるから始めての観光客にこれはひどいと思わしむるが、さて呉山の第一峰に上るとやっぱり美わしい都である、
明の太祖ならずともこの形勢の地に立って百万の瓦を下に遠く銭塘江をながめ、脚下に西湖の碧水を隔てて、遥かに天目諸山の峩々たるを見る時、誰か三嘆せざらんやである。
城隍廟黄潤寺などの寺観あるも見るべき価値少なければやがて下山。
~>゜)~<蛇足>~~
長髪賊の乱: 「太平天国の乱」のことです。
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杭州の歴史については、かなり前に友達向けに書いたものがあります。
興味のある方はどうぞ→ 「ぽんずの杭州の歴史」
~>゜)~<蛇足3>~~
ご参考までに東方見聞録はこちらを読んでいます。
『完訳 東方見聞録〈1〉 (平凡社ライブラリー)』
『完訳 東方見聞録〈2〉 (平凡社ライブラリー)』。