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さてこの黄埔江改修事業は北清事変最終議定書の規定により1905年の改定をへ、1906年より10年に亘り技師長ライク氏の計画に従ったもので、この期間に
(一)呉淞江内外砂灘の除去と行い、
(二)もと汽船水道(old ship channel)と名けて迂回していたのを廃し、民船水道を浚渫してこれを直線し、
(三)黄埔江全水道を整理して呉淞より揚子江中に突出せる4,700フィートの導水堤を完成し、外閂州を水勢によりて押流すこととし、内港は川幅700フィートとし平均低水時に水深を21フィートにすることにした。
しかしこれでもというので、1912年に現水路局技師長ハイデンスカイム氏によって更に平均低水時水深24フィートに深かめ、延長八哩、桟橋線28,000フィート、倉庫収容力正に80万トンに達することにした。
しかしながら世界の航運は益々進んで大船主義になるから、少くとも吃水33フィート以上の大船が横付けになるように改修しなくてはならぬ。
これが将来に残された上海港の大問題である。
故にこの改修工事に関して濬浦総局なるものが、
上海支那政府代表者、税関長、港務長を以て組織せられ、
別に諮問局とて上海港へ出入する船舶の最大トン数を有する五ヶ国より一名宛選出する委員によってつくられたものがあり、
この事業の維持改修に供する財源として、上海税関の総出入品に対する附加税百分の三及其他を徴しているのである。
しかしそれほどの経費で以て、現在よりも10フィート近く数10マイルの砂灘を除去することは中々容易でない、
しかもその所へあの濁流揚子江からの砂が沈まないようにどうして出来るだろう、
かりに濬めてもすぐ様埋まるから、これを埋まらぬようにすることは恐らくは不可能であろうと思われる、
ここにおいてか上海築港問題として諸種の計画が案出される。
あるいは松江と太湖江陰の間に大運河をつくり、江陰から揚子江の水を入れ、黄埔の水を高めようと云うものもあれば、
或は呉淞江口に丈夫な水閘をつくって7フィート以上水面を高めると云う考とか、
或は揚子岬付近に港の口をつけかえるという考とか其他種々あるのであるが、
さしあたり港内最低水30フィートの深さに浚渫を行い、
黄埔江口左岸附近において大船用の接岸繫舶所を増設しようという事になっている、
これと同時にFairy plat(神灘)の深度18フィートに過ぎざるところもまた浚渫せしむることになった、
思うてここに至れば、禹貢に三江既入、震澤底定と導破されてこの方四千年、
三江の運ぶ土砂は今日に至って、猶其底定する所を得ないと云うべきであろう。
華亭境古図によると上海鎮は紹興二十九年(1159)罷市舶とあって
熙寧以后85ケ年間しか市舶司が置かれていないのに、
青龍鎮の方は、「大観元年(1107)以鎮治水利、兼領市舶、元至元九年(1272)罷属上海」、とあるから、およそ165年間というものは、この上流の方が海外貿易の要港であったのである、
それから20年をへてこの上海市を陞して県にするに至ったのであるからおそらくその時は蘇州河も浅くなったのであろう。
上海県志に元至元二十九年折華亭東北境地、置上海県、此立県所自始也とあるのがそれである。
しかも「元建県後二百六十余年猶無城、故前明倭寇数躪焉」とあって、
最初は城壁もなく、茫々たる河口の浮州のような所に長人、高昌、北亭、新江、海隅という五つの郷が出来たのを上海県としたにすぎなったのであるが、
同三十二年には郷人顧従礼の建議によって倭寇を防ぐための上海県城壁周囲9支里2丈4尺のものが出来たのであった(1553)。
顧氏の建議文によると、「最初の城垣の守る所なきは、一は事草創に出で庫蔵銭糧未だ多からざると、一は地方の人半ば海洋貿易の輩で、武芸にも通じていたから、海寇も敢て来犯しなかった為である」と説いてあって、
建県当時の様子を明にし
次に今編戸600余里、農商の民も増加し容易に海賊に掠められる。
これは全く無城の故であると論じている。以て十六世紀の初めにおける様子を知るに足るのである。
さて蘇州河もその後やがて淤積し、明初には夏原吉の大工を要するに至ったのである。
銭中諧の呉淞江淪を読むと「夫夏公之時呉淞濶150丈、至隆慶間而旧蹟止存三十丈」とある、
してみると明永楽の時なお150丈もあったのに、150年後の隆慶年代には30丈の広さに縮まったのであるが、
今日この川の黄埔に合する所では幅凡120嗎(30余丈)であるから明の中期以後川幅は略安定したと見てよい。
しかるにその水深を濬めて疎通をよくすることは、単に交通上のみの問題でなく、
水利灌漑上からも必要であるから、巡撫慕天顔をはじめ歴代注意して来た。
それが今日では上海港というものの生命を全うする上において更に重大な問題になって来たのである。
さきにも述べた通り上海へ大艦船が遡江する際の障害は江口東沙の南より、揚子江岬砂堆の間に拡がるFairy plat30カイリの外に、呉淞江口の外閂州(アウターバー)と称する暗沙がある、
呉淞江から黄埔を遡る13カイリの間も亦淤沙の著しきものがありここに内閂州(インナーバー)がある、
これらの淤沙を浚渫して大洋航海の船を安全に出入せしむる為めの黄埔江改修工事と称する事業がある、
しかもこれは実に現今将来の大事業で其解決如何は実は上海の死命を制するものである。
もしこれを棄てて顧みずんば期年ならずして白茆、劉家の轍を踏むであろう。
上海鎮隷華亭境図
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かようにこの地方の海港なるものには変還があるが、
それは主として太湖からでる水道の出口にある船着場が淤砂の為に止むなく其機能を発揮し能わぬ所から生ずるもので、
宋時にはかかる水道の江及海に通ずるもの二十四浦と称せられ、
中にも五大浦とて、茜涇、下張、七鴉、白茆、許浦などが重要な港であった。
この中白茆は宋嘉祐二年范仲淹の開浚があり、
元の季張士誠が兵民十萬を発し、浚治すること長さ九十余里広三十余丈と称せられた所である。
明の『海道経』には、
「劉家港出揚子江南岸候潮長、沿西行半日至白茆港」、
と記し劉家より西へ白茆に至るのは
劉家から山東をへて直沽に達する当時海運の公道であり揚子江に於ける重要な海港の一であった。
故に明の嘉靖年代(一六世紀)には、闊33丈深1丈5尺もあったとの事であるが、
これも康熙時代には巾2丈ないし1丈5尺、深4、5五尺に淤積した。
かかる類例は枚挙に遑がない故に呉卓信の語に、
「自宋至今沿海之河、開濬不知凡幾、未久皆為潮汐壅塞」
とある。
黄與堅も『江南通史』に、
「太湖諸水、入海要道、其患在潮與汐逆而上、淀積渾沙日以淤塞、幾十年間必其濬之而與大工、役大衆不可以数挙」
と記したのである。
かような次第であるから上海の如く太湖から去る呉淞江、黄埔等の水道によって発達した都邑には、自からこの水道の淤塞という問題と不可離の関係を有すべきである。
しかしかように沖積地の発達ということが速かでなかったならば
上海も今日の所に生じなかったであろう。
上海の地が海面に顕われたのは極めて新らしいことで、
唐代(九世紀)にはまだ華亭海という海で、
それが十世紀になってようよう民人の居住地となり、
十一世紀には相当な港となり、
十三世紀になって(元代)愈よ上海県となったのであるから、
沖積平原としても7、800年この方の土地である。それは『大明一統志』に
「上海県在(松江)府城東北九十里、本華亭県地居海之上、旧曰華亭海、宋時商販積聚名上海市、元至元中置上海県」
と明記してあるので明らかである。
この華亭県というのは今の松江のことで、
唐天保十年(752)に崑山、嘉興、海塩の地を割いて新置した県であって、
その県の東北に当って華亭海と称する。
恐らく大なる入り江のようなところが、漸次埋まって陸地となったのが、
宋代の上海であろう。
この類例は揚子江口の崇明島に見られるので、この島は唐代海中にあり、
宋建炎中(1127)に至り初めて沙上に人の住む所となったのであるが、
爾来益々其面積を増加しつつあるように、上海も其後陸地の増加に伴い、人口愈増加し、
元代の上海県の版画の中に今日では青浦、宝山、南匯、川沙の四県が分離独立するに至ったのである。
かく年々に造花膨張する陸地を民人が占領する状について日本の『水路誌』に
「毎年此ノ如クシテ自然ニ埋立テラレタル土地ハ附近ノ支那人之ヲ占有シ直チニ堤防をメグラシテ耕種ス」
とある通りで、
最初は湿潤の地に茭蘆が生じ、泥沙の沈澱を容易にすると、
やがて菱茨の類が蔓衍し、次いで有力者が稲田にするのである。
かく土地の新成増加を考うると、上海市が宋時今の蘇州河口に出来た時、
黄埔が現状のように南北の主流であったか否やは明かでない。
黄埔の上流嘉興県の辺は、或は伝説の通り楚春申君が鑿ったかもしれぬが、
下流に至って南から北へ一大屈折をするは、
『明史河渠志』にある永楽元年及二年(1403)に夏原吉が蘇淞の水を治め范家浜を濬め、大黄埔に接し海に達せしむとあるに始まる。
即ち現在の黄埔江下流は十五世紀の初めに現れてくるのであるから、
それが十一世紀に同様であったとは考えられぬ、
『上海県志』に
「宋元間諸蕃入貢皆由青龍鎮、故有舶提挙司之設」
とあるのを見ると、上海よりも寧ろ其上流蘇州河を遡ること水路20カイリの地点にある青龍鎮(旧青浦)のほうが当時重要な海港であったと考えねばならぬ。
~>゜)~<蛇足>~~
目で見たほうがわかりやすいと思ったので、
手持ちの歴史地図集から揚子江デルタの部分を切り抜き、
並べてみましたので、資料: 長江河口の海岸線の変化をご覧ください。
西湖より包頭まで 1 上海へ -04 過去の上海 -01
東洋第一の称ある上海、
1904年(日露戦争の年)の貿易額は3億2500万両人口45万余に過ぎなかったものが
1919年(欧州戦争和平克復の第一年)には一躍して5億2000万両に上り、
支那貿易総額の約六割を占め人口約200万の世界的大貿易港となるに至った。
昔は滬涜という、滬は「列竹於海澨以捕漁者」であるから、
まず浜海の一漁村にすぎなかった所である。
それが今日になった歴史を尋ねてみると、
第一に揚子江口における沖積地の発達という事を述べねばならぬ。
今の民国になって、江蘇省を五道に分ち
この浜海の区を滬海道という名にしたのもこの古語に基づくのであるが、
この道は上海、松江、南匯、青浦、奉賢、金山、
川沙、太倉、嘉定、宝山、崇明、海門の十二県を統括している。
松江の西北に、石英粗面岩から成立せる鳳凰山、天馬山、佘(シャ)山等孤島状をなせる地塁を除いて、
全体一望平坦な揚子江の洪涵平野で太湖の水が縦横無数の溝渠となって貫流するところであるが、
滬海一帯、潮汐の来往によって、洪水の運ぶ土砂が直ちに淤積するために、沖積地の発達驚くべきものがあり、その結果太湖尾以東の沼沢地が段々と淤塞する。
そこで呉諺にも「海水一潮其泥一篛、日積累支港漸淤」という程で、
その結果三県三呉の水利事業は、歴代地方政治家のもっとも苦心する所である。
そのいかに沖積が甚だしいかと云うことはこの十二県のなかで
海門、崇明、宝山、上海、川沙、奉賢、南匯、青浦の八県の地が、
少なくとも唐の時代には海面上に現出しなかったところであることによって証せられる。
したがってこの江口におけるデルタの発達に伴い、
この地方の海運は古来幾多の変還をなし、かつては川幅も広くかつ深く大船の出入に自由であったところが、一、二世紀の後淤積の結果、繁栄を失うた歴史が多い、
たとえば、今の太倉という町は西暦三世紀、三国の呉が
ここに東倉を置きし故にその名を得たところであるが、当時は有力な海港であった、
しかしてその港は太湖から蘇州娄門に出て東流する娄江(劉家河)と称するものの河口にあたっていたのであるが
爾来千数百年をへて、太倉は20マイルも内陸に入り、娄江の舟運によってその繁栄を維持すとはいえ、また昔の海口でなくなった。
やがて娄江の河口に於いて宋以後に劉家港と称する海港が出来て元明両代開運の起点になった。
乾隆年代の人陳起元が建議の中にも
「劉河通塞所関不止在一州、河向寛二十余丈、元明開運道焉、
高舸巨艘連檣上下、今未百年而河面之存者些五六丈」、
と述べた通り、元の海運及明の海道の起点となって揚子江口附近最大の都会のなったのであったが、
今日では川幅も縮まり、嘉興から13支里も奥になったので、
再び海港としての位置を恢復することが出来ない、
それでもなお劉家鎮という町は今日戸数600、人口4000を有してやはり民船が輻輳している。
第五図揚子江口
~>゜)~<蛇足>~~
目で見たほうがわかりやすいと思ったので、
手持ちの歴史地図集から揚子江デルタの部分を切り抜き、
並べてみましたので、資料: 長江河口の海岸線の変化をご覧ください。