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Pengzi de 雑記帳
中国に関する雑記、備忘や以前すんでいた北京・蘇州の思いでなどなど
六月十日  端午。家々に粽子作って食う。門口には菖蒲、艾蓬、大蒜頭を雄黄にひたした紅紙でしめて掛け、雄黄酒を注ぎ、又飲み、小供の額に塗り、手首脚首にそれをひたした布をまき、悪蟲を避ける。
日比野明朝出発につき、五人、教師と共に大丸にて市川領事に招ばれる。

 六月十一日  日比野上海に一番で立つ。帰り、市場を見るに、茭白を美事に割るを見る。季節の物としては別になし。莧菜、紅莧菜、茭白、四喜豆等。水果には山桃(生毛桃と云う由)、枇杷、杏子、青梅(ややすぎたり)、桑子、楊梅等。花売りも多くなる。白蘭花、茉莉。香蕉はすぎたか。

 六月十四日  日比野下午帰る。夜より雨。久しく降らず、知事は為に雨乞いを初め、城隍廟に参り、屠を三日禁じた所(断屠)、早速一寸降り出した。こっちも久しぶりに一月以上の日記を整理する事、以上の如し。

 六月十六日  大島氏来る。曲園誕生百廿年記念展覧会を中山堂に見る。

 六月十七日  旧五月十三日。関帝生日の取りこし。大民会にて出会する。閶門にて見物。今日よりは「開屠」。

 六月十八日  午後、虎邱寒山寺に遊ぶ。虎邱の夏景色もなかなか佳し。冷香閣にて喫茶。悠然とする。大島氏の案内がてら、関口・国広両氏をさそう。

 六月二十三日  大島氏を案内し、三度霊厳山に遊ぶ。琴台には王鏊の琴台二大字、正徳丙子の都穆の題字等あり。琴台をゆっくり見物したのは、今度が初めて。二時半、宣昌福にて食事後、西園に遊ぶ。巨亀一双、今日は出て来た。

 六月二十四日  大島氏、朝帰る。完全な梅雨となる。

 六月二十六日  関口氏、明日出発、明後日出帆の由。手伝いにて大忙し。

 六月二十九日  午後、旅行報告を出し、今月の、特にこの一週の大忙しを終る。帰りに在古にて東坡七集、四印斎、石印宋六十家集、平山冷燕を七十三元にて買う。今月買ったのは韻府群玉5.00等。留真譜、石印元人十種詩、元四大家集(存古)。


~>゜)~<蛇足>~~
 昭和15年1940年の端午の節句は6月10日だったのですね。
 この季節の物、懐かしいです。
 桑子=桑の実は、シルクの産地蘇州ならではというぐらいたくさん出回ります。
 ...シルクの蚕は桑の葉っぱをたべますから、桑の木はたくさんあります。
 楊梅は、塩水につけて、虫を出して.... とちょっと面倒だったなぁ...
 なかなか梅雨入りせず、雨乞いをしたなどという記述は面白いです。
 

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蘇州は江蘇省にあります。
江蘇省は、日本の西日本のあたりに位置し、
気候は日本によく似ています。



世界地図を広げて、中国・上海を見つけたら、
そのすぐ西が蘇州です。
ちなみに中国版新幹線で25分。


上海の西に太湖という湖がありますが、上海と太湖の間です。

(かなり西寄りですが...)

~>゜)~<蛇足>~~
地図は「中国まるごと百科事典」http://www.allchinainfo.com/の
フリーダウンロード地図を使わせていただきました。

地図をクリックすると、大判の画像が出てきます。
蘇州日記をご紹介するにあたり、蘇州についてご紹介します。

現在の蘇州の日本でいうところの旧市内を中心にした地図を
百度マップから拾ってみました。



水色のお堀に囲まれているのが、いわゆる蘇州城です。
城とは言いますが、
日本の平城京、平安京の「京」にあたると思っていただけたらわかりやすいと思います。

はてさて
蘇州城は、中国でも有数の古都です。
どれぐらい古いかというと春秋時代にまでさかのぼります。
春秋五覇のひとり呉王・闔閭が、伍子胥に命じて作った都が「闔閭城」。
現在に至るまでの蘇州の基になっています。

現在残っている最古の地図は『平江圖』という、
石碑に刻まれた地図です。



これは南宋の時代、1229年に彫られたもので
その拓本の写しです。
わかりやすく白黒反転させたものがこれです。


ほとんど変わっていないのがお分かりいただけると思います。
蘇州は、紀元前500年ぐらいから続く、中国有数の古都なのです。
『蘇州日記』 01

昭和13年

12月○日 東方文化研究所より外務省在支特別研究員の交渉を受く。

昭和14年

04月05日 上京。1日外務省に至り面会。

05月○日 過誤により第三種留学生に選ばれたるにつき辞退。日比野同ず。月末在支特別研究員を命ぜらる。

07月14日 身分証明書来る。日比野、大島両氏は7月2日出発。北京に向う。

07月24日 警察署より証明書を受く。

08月02日 夜、上京。8日墓参。1日帰路。

08月11日 上賀茂田端氏邸に末次晋氏を訪い、蘇州に於ける宿所を同氏宅に求む。蘇州城内五州路同益里第三号。

08月14日 郵船鎌倉丸申込み。

08月24日 母の喪に遇う。

09月04日 11日迄出発延期届を1付提出。

09月05日 郵船香取丸に申込み。

09月06日 香取丸一等Bに予約。

09月22日 朝8時出発。正午神戸出帆。

09月23日 門司2時発。

09月25日 支那時間11時30分上海着。

-*-*-*-*-

解説;

東方文化学院:
義和団事件(1899年)の賠償金で作られた日中共同の東方文化研究所。
相互理解のための文化研究所。
日中双方に設立、日本側は東京研究所と京都研究所がありました。
1938年に
 東京研究所→東方文化研究所
 京都研究所→東方文化学院
改称。
いってみれば外務省管轄の東アジア専門研究機関。

身分証:
ここでいう身分証は、パスポート。

同益里:

百度地図から....
地図の「1」あたりが同益里。
四角い水路は蘇州城のお堀、お堀の内側は昔からの蘇州なので、
蘇州のど真ん中あたりです。

郵船香取丸:
日本郵船の欧州航路の貨客船。
ということは上海にも立ち寄ったんですね。

(この船については、サイト「なつかしい日本の汽船」さんをご覧ください。)
(欧州航路の船だということも、そちらで勉強させていただきました)
(船についての紹介は、門外漢が書くよりも、ぜひ「こちら」をご参照ください。)
予約したものの乗船で気なかった鎌倉丸はポートサイド航路でした。
こちらも、サイト「なつかしい日本の汽船」から判明しました。




~>゜)~<蛇足>~~

特別研究員として中国に行けるはずだったのが、第三種留学生....
第三種留学生がどんなものかわかりませんが、文字からして底辺ですよね。
そりゃ辞退するでしょう。
どんな待遇だったかは想像するしかありませんが、かなり違うのがわかります。
すったもんだはあったのでしょうが、特別研究員としての派遣が決まってよかったですよね。
待遇、全然違ったと思います。
私の時代は、中国が留学費用をもつ国費と、それ以外の自費がありました。
費用の面でかなりの違いがありました。
ちなみに私は、成績及ばず自費でした....(^^ゞ
自費の中には、会社派遣などの人たちもいましたね。
私は最底辺の、自費の自費の留学生でした。

香取丸については、サイト「なつかしい日本の汽船」を参照させていただきました。
(転載許可をいただきました。ありがとうございます)

日本から海外に渡った文豪諸氏などなど、
どんな船に乗っていったのか.... 調べてみたいと思っているところです。

神戸-上海航路:
この日記の中で 神戸-上海間は
22日神戸正午出港、25日11:30上海到着。となっています。
現在も神戸-上海航路はあります。
週一便で、火曜日11:30神戸出港、木曜日11:00上海到着。
詳しくは新鑑真http://www.shinganjin.com/をご覧ください。
『蘇州日記』高倉正三著 (光文堂)のご紹介



最近、再読している蘇州語研究者であった高倉正三氏の
1941年9月から1943年3月までの日記をご紹介することにしました。
75年ほどまえの蘇州の様子をお伝え出来たらうれしいです。
できるだけ解説に力を入れたいと思っています。

第1回は、昭和13年(1937年)~14(1938)年9月の出発前夜まで。
留学生選抜から、渡航準備の日記です。
(第2回から中国国内になります。)
お楽しみいただけたら嬉しいです。

注意:
読みやすくするため、
 漢数字はアラビア数字に、
 旧字体は、新字体に
書き換えています。

~>゜)~<蛇足>~~
表紙を開けたところのこの地図。

オリジナルを現在探しているところです。

~>゜)~<蛇足>~~
私の留学記念日は1983年9月4日。
友達といつも祝っています。
あのころももう、歴史の一部になっていますが、
それよりも昔の留学生の先輩の生活の様子を、
紹介したいです。
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