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Pengzi de 雑記帳
中国に関する雑記、備忘や現在住んでいる蘇州の様子などなど
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~>゜)~<お断り>~~  
 突然ですが、途中をすっ飛ばして、北京編を連載しています。
第五章 燕京の二日間 
 北京   (5-01) 前編 後編 
 紫禁城  (5-02) 前編 後編    ←NEW!!!


『西湖より包頭まで』目次

著者旅行行程略図 (0-00)

第一章 上海へ (1-00)
 揚子江口 (1-01) 前編 中編 後篇
 上海   (1-02) 前編 中編 後篇
 上海の通貨(1-03) 前編    後篇
 過去の上海(1-04) -01  -02 -03 -04
 上海の発展(1-05) 上海の発展

第二章 江南の風物
 杭州へ  (2-01) 前編 中編 後編 
 杭州西湖 (2-02) 前編 中編  (……中断しています……
 城隍廟
 夏服



第五章 燕京の二日間
 北京   (5-01) 前編 後編 
 紫禁城  (5-02) 前編     ←NEW!!!




~>゜)~<蛇足>~~
 やはり... 一番好きなのは北京で、そこに行くまでに、なんとなく飽きてきてしまいました。
 気合を入れる意味で、とりあえず北京の紹介をしようと思います。
 悪しからずご了承ください。

2018/09/24
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西湖より包頭まで 5  燕京の二日間 -02 紫禁城 後編


 辞して中央公園に立ち寄り、老柏天に参する森厳な空気の下で中食をすまし、公園の隣の社稷壇に入る。
白石壇三層めぐらすに琉璃瓦の垣がある。
東は青、西は白、南は赤、北は黒瓦で畳んである。
青が紫に見え、白がやや黄味を帯び、赤が赭色をなしてはいるが、
窯色めづるに足るもので、壇の北方に社稷の祠があり黄瓦をふいてある。
壇上から皇城の方を見ると、天安門、端門、午門の結構雄大に仰がれる。



 ここを出でて紫禁城内に入るべく西華門にゆき、まず武英殿に入る。時に午後2時。
元武英殿聚珍版の活字が貯えてあったところ。
今は国立博古院の監理する陳列館で、康煕・乾隆の全盛時代の御物をはじめ、
天下の美術工芸品の淵叢となっている。
郎窯の紅、均窯の紫、青磁の凉色をはじめ名状しがたい陶器の逸品、
堆朱、印材、竹材、象牙材の技工品をはじめ、硯石、珊貝の妙品に至るまで、
一として至宝ならざるはない。
かくのごとき世界が眼前にあるのに気も遠くなる。
周代の古銅器ごときその美わしい古色に陶酔させられる。
二時間や三時間で出られるところではないが、あまりの立派さに食傷しないうちにと、
ここを出て順路太和門を通って右に体仁閣、左に弘義閣を見つつ正面の太和殿に登る。

 門外に金水河が曲線を描いて流れている。
仰げば白大理石の階欄、殿前をめぐること三段、高さ丈余、正面に磴道三つ、
これに前垂石か45枚蛟龍が刻してある。磴道の左右、宝鼎を配置すること十有八、
殿前の広場に銅亀銅鶴格一対、日圭、日嘉がある。
まことに威風堂々たるもので天子賀をうくるの正殿だという。
袁世凱の時これを承運殿と改名したとのこと。
その奥に中和殿、保和殿とほとんど同大の宮殿があって、
も一つ奥に乾清宮があり、満州皇帝の居邸になっている。
保和殿には四庫全書の一が置かれてある。
今これら雄大な聯階の上に立って、
階欄の下はるかに低い廷上の廊廡に群臣百官を置くときの天子の尊厳を思うと、
なるほどこれが宮殿というものだと感じる。
漢高祖が、「今日皇帝となるの貴を知る」と叫んだ長楽宮も
あるいはこんなところであったのであろう。

 ここをおりて協和門を出て、文華殿に行く。
武英・文華と相対して太和殿外の左右にあり、
文華殿は東で東華門から入るのが本道である。
もと文淵閣とてしこの一を蔵したところであったが、
今は武英殿とともに陳列所にあてられ、ここで書画の逸品を展覧せしめる。
方琮、仇英、文徴明などの霊筆に見てとれる。
辞して清史館の前を通り東華門を出で、
南池子街を南して正陽門に出で一路南して外城内の天壇にゆく。



 ここは天子親しく皇天上帝を祀るところ。
明の永楽十八年の創建で、周囲九里十三歩の磚塀がある。
規模宏大の禁地で驚くべき老柏の野原ともいうべきところである。
まず右手の斎宮に入って、古の楽器を見る。
十六律の黄鐘および玉磬、十八の方響(鉄)の立派なのに驚く。
祭器楽器数多きものの中に敔とて虎形の背に木片数十をつけたのが珍しい。
ここより歩して林野の間を過ぎ天壇に達する。
その圜丘は天にかたどって白大理石算段に築き上げてある。
各段五尺余の高さがあり、径二十一丈に達する。壇をめぐって二重の垣がある。
壇下に五つの鉄篝があり犠牲を焼く竈も見える。
圜丘の北の成貞門を出ると皇穹宇と名づくる祠堂があるが入れてくれない。

 皇穹宇から後方の大通りを北に行くこと一支里にして祈年門がある。
祈年殿の入り口である。
殿は正月上辛天子年を祈るところ。
光緒二十三年の再建として碧琉璃にて葺いた円形の三層楼がまだ新しい。
殿内仰いで柱組みや丹碧の傅彩を見る。
壮麗実に天壇第一の偉観である。



ここを出て先農壇にゆく、嘉靖年代の創建である。
周囲六里の長垣をめぐらし中に太歳殿、神祇壇、観耕台などがある。
今は城南公園と化し、太歳殿は警察部が宿所とし、観耕台は茶店となり、
籍田の跡まったく荒れてテニスコートに化し、
天神および地祇を祀った石造の龕、むなしく雑草の中にうずもれ、
方壇まさに崩れんとするの状、まことに遊子の失望に値する。
かずこれで見物日程の第一日を終わったことにして帰る。
夜に入ってさらに中央公園の夜景を見、転じて城南公園に遊ぶ。
いやに殺風景なところだ。
十一時帰宿。 



~>゜)~<蛇足>~~

 「大和殿」、先農壇の「大歳殿」を「太和殿」、「太歳殿」に変更しました。
 太和殿前の「日晷、嘉量」はオリジナルでは「日圭、日嘉」になっています。
 参考までに
   日晷(にっき)は日時計、嘉量(かりょう)は度量衡の標準器です。
   
   手元の『紫禁城』の写真集(1987)からの参考写真です。

~>゜)~<蛇足2>~~

 天壇の祈年殿について「壮麗実に天壇第一の偉観である。」と書きながら、
 挿入写真が、祈年殿内部...。何と言いましょうか....。
 

~>゜)~<蛇足2>~~

 北京は乾燥しているイメージが強いのですが、
 場所によっては緑が多く存在します。
 昔、「孔子廟に野生のフクロウがいる」と新聞で読んだことがあります。
 いまでもいるのでしょうか?


西湖より包頭まで 5  燕京の二日間 -02 紫禁城 前編



 8月31日午前7時起床。
まもなく隣の三菱公司におられる山本農学士の来訪あり。
正定、無極、寧晋、邯鄲付近の棉作指導の談話を聞く。
午前9時半旅宿の案内人を雇いて
まず北海を見物せんとて、馬車に乗り三条胡同を西して皇城繚牆に達し
これにそいて北、東安門を入って紫禁城の濠の外なる北池子を北に通り、
さらに濠に沿いて皇居の北、神武門前を横ぎる。
この門内に宣統帝がおられるとのこと。
ここをずっと通って承光門に達し、団城を左に見て、門照を衛士に渡し、
「関翠」と題せる牌楼をすぎ、碧橋を渡って、瓊華島に入る。
ここでまず見物としての第一歩を踏んだことになる。


 
 この島は艮嶽に擬してつくられたものだとのことで、
奇岩怪石これを蔽うに蒼々とした樹木を似せてるところ、
橋の北詰に堆雲という牌楼がある。
ここを北進すると永安寺で殿堂の後ろに乾隆の二碑がある。
漢梵蒙満の四体の書で、一方に山の由来、一方に『白塔山総記』が記してある。
さらにこの両碑から石階を上ると白塔山である。
正覚殿内に祀られてある喇嘛仏を拝し、その殿上より北京を大観すれば、
旧皇城は言に及ばず、総督府、国務院すべて一眸の中にあって鬱蒼たる森林の都、
ここかしこに宏大なる建築物の甍の光、
黄瓦、緑瓦、紅瓦、黒瓦とりどりに相調和して
悠久の大都たるの感ことにふかい。

 森の都といわんよりは琉璃の都と呼ぶのがよい。
ことに手近な行宮万仏楼の黄瓦碧瓦の取り組み、
北海をへだてて夢のごとくに浮かび出たるは、なんともいえぬよい景色である。
殿後の白塔は入ることができない。
白大理石で積み上げられた宝珠塔に、秋草秀たるがあわれと思うほどに、
鳩が一羽去来したのも時にとっての風情であった。
ここより歩んで池辺の碧照楼に下る途中、珍奇な庭石の中のトンネルを過ぎ、
楼後の漪瀾堂に出る。
楼は海に面して東に有延楼西に綺晴楼の回廊がある。
結構の美、水陸の映発、とても我国宮島の比でない。
堂に題して「湖天浮玉」とあるのも誠なりと思われる。
何にしても文字の国だけに島の名前、楼の額、いずれもこったものだ。
あるいは琳光、あるいは甘露と名づけ、あるいは水精という。
瓊華春陰、徘徊去らしめずという趣である。
楼より船に賃して蓮湖の中から顧みれば、
左に景山あり、右に御河橋のアーチあり、
階上高く「遠帆閣」と題せる碧照楼の結構を中心にして、
双翼の回廊が水に浮かべる様子は、天然の勝と人工の美を兼ね備えた有様、
一行ただ陶然として酔えるがごとくである。

 やがて船は五龍亭につく。
湖によって五つの亭があり結構また数奇を極めている。
石橋を歩みて「震旦春林」と題せる仏寺に入ると、
堂の中に極楽世界の模型がある。
須弥山を形どったもので下界から上に登れる仕組み。
堂もしたがって宏壮であるが修繕中で登らさぬ。
「妙境荘厳」、「安養示諦」などいう牌楼がある。
ここを出て湖にそいて明代後王室の帰依ふかき大慈真如宝殿にゆく。
天王門の四天王は目下仏師の手で塗りかえられている。
宝殿は白木作り、中央の三尊仏は鋳銅で立派な製作品である。
この堂の奥にも一つ八角堂がある。
龕中には仏像はないがその台座石の四方に精密な彫刻の仏画がある。
この堂のも一つ奥に鉄骨で石と煉瓦と土とのみでできた建築物がある。
琉璃瓦で極めて美わしく化粧してあって堂々たる殿堂であるが、
今は半ば破れている。
辞して楽静園外で九龍壁というものを見る。
これは驚くべき窯工の精技である。



~>゜)~<蛇足>~~
 わかりやすくするため、変更したのは以下の通りです。
 本文中の
  「団城」  オリジナルでは「団殿」
  「九龍壁」 オリジナルでは「九龍牌」 


~>゜)~<蛇足2>~~
 本文中の「この門内に宣統帝がおられるとのこと。」
 そうなんですねこの時代、まだ宣統帝は紫禁城の一角に暮らしていたのです。


~>゜)~<蛇足3>~~
 北京は好きなので、あちらこちら解説をつけたくなるのですが、
 今回は文章の紹介を続けます。
 機会を見て、解説をつけたいと思っています。

西湖より包頭まで 5  燕京の二日間 -01 北京 後編


 民国以来その威令が長江以南に及びかねるのもその基づくところはここにある。
予はこの意味から、民国発祥の地漢口のごときに首都を移すべきであると思う。
東西に長江を帯び南北に京漢粤漢の一大幹線ができあがるべき漢口は、
実に漢民族居住地の重心でもあり、文化の中心にも近いからである。

 しかしたとえ首都が南に移るとしても北京が北方の強国に対してもっとも重要な位置にあることは今も昔も変わりがない。
北京を軽んじては南方がまた安穏なるを得ないのは歴史のすでに教うるところである。
人はあるいは首都として南京の形勝をとくも、北京のほうはかよりもはるかに雄大である。
いずれにしても北京は今支那の枢要の都であるが、ここに最初の痕跡を残した燕の薊丘というは、今の北京の西南にあったらしい。
その後今の北京に最も近く都城ができたのは、遼の南京、周囲三十六支里八門を置いたのに始まる。
『大清一統志』によれば、
「遼故宮は京城の南にあり」と記し、
「金の故宮は京城の西南にあり」とあって、
遼金の休場その位置を異にしているが、
一説には金は遼の跡によったのであるといわれている。
その金の都というは今の外城の先農壇よりも西、琉璃廠の南にあって、
周囲七十五支里十二門を有る堂々たるものであったらしい。(第五十三図)


 やがて元の世祖が都するが、旧城の東北三里に新都を築き、西紀1273年ここを大都と号した。
その大きさ方六十支里二百四十歩であるから金よりもはるかに大きい区画であった。
この大都の跡に明が都したとき、これをもって大に過ぐるとなし、城北五里を縮め東西両面の北方の門を廃した。
同時に南面は二里だけ前に広げ土墻のかわりに磚壁をめぐらした。
でこの際には西南の旧城も、北方の土墻もまだ残っていたが、
嘉靖三十二年南面一帯に外城をつくった時に、ついに金の旧城がなくなったのである。
しかし北方の土墻は今も残っていて、徳勝門外五里にして土城関という村がある。
これがすなわち元京の北至である。

 清朝になって明の遺訓をかえず、
城壁の高さ三丈五尺、南面と北面の長さ各二千二百三十余丈東面千七百八十丈、西面千五百六十余丈で矩形が少しいびつになっている。
城壁の四隅に各一の角楼があったが、西北の一隅今は壊れている。
南に三門、ほかはいづれも二門で合計九つの門ある。
これすなわち内城で周囲に護城河がある。
京漢線および京奉線はこの護城河と城壁との間を通って南面の正陽門の東西に留まり、東駅、西駅となっている。
すなわち京城の交通線の起点はこの正門前にはじまる。


 正陽門を入ると、真っすぐに旧皇城への道であるから、内城市街へ行くには右または左に折れなくてはならぬ。
けだし内城の中央に高十八尺の繚牆周囲十八里余の旧皇城区があって、
さらにその中心に午門を正門とし濠をめぐらした南北二百三十六丈九尺五寸の紫禁城なるものがある。
でこの皇城を中心にしてその左右と後方とに内城市街があるので、北京の主要交通線は中央に通じていない。
ゆえに内城の前門の東にある崇文門から北上する崇文門大街と、前門の西にある宣武門を北上する宣武門大街が導線となり、
これと交差する各門大街が、その第二の幹線をなしている。
正陽門街と崇文門街との間、内城壁と旧皇城との間に、東交民巷と称する外人の居留地域があって、
その建物とその道路とが洋式にできていて、大に異彩をはなっているほか、
市街はすべて支那式で、道路も黄土のままのところが多いゆえに、裏町などに行くとよほど粗末なものである。

 外城は一名羅城といい最初は四囲を囲むつもりであったが、今は南面のみに長方形の城壁を取りまいている。
前門大街、崇文門大街、宣武門大街と大通とし、各省より集まれる商民雑踏の地となっている。
しかしその市街地は全体の三分一にも達せないで、他は寺院、田園、墳墓の荒漠たるところとなっている。

 けだし北京は人口に対して空地が多いところである。
しがたって何とはなしにゆったりした大陸的気分の汪溢せる感がする。
最近の調査で人口1,184,000人と報告せらるるが、男子が特に多い。
諸所に仮寓して一定の住所のない苦力が、20万人からも住んでいるだろうといわれることによってもその形勢がわかる。
したがって人力車の廉いことは驚くべく、電車ができても賃金上これと競争して苦力のほうが勝つというところだ。
これ全く支那の生活費の低廉な結果であるが、一方かような無職の蒼生に対して、
財産家の余裕あるものの生活状態は、これまた驚くべき贅沢なもので、上品なゆとりのある暮らし向きをしている点において、こせついた日本人などの到底思い及ばぬものがある。
我等は短時間に北京を見物せんとするのであるから、寸暇といえどもこれを利用すべしとして、北京見物日程なるものを参考とした。


~>゜)~<蛇足>~~
 東交民巷: 原文では東巷民街となっているのですが、
       間違いが明白なので本文中では訂正してあります。


~>゜)~<蛇足2>~~
 北京のことを読んでいる時が本当に楽しいです(^^♪
 蘇州在住が北京に滞在した時間を超えましたが、
 青春時代を過ごした北京は私の中国の故郷です。

西湖より包頭まで 5  燕京の二日間 -01 北京 前編


 北京は北緯39度54分12秒、東経116度28分54秒にあるから、
北温帯で気候の良いところである。
大陸性で夏季は最高気温が38℃以上に上り冬季は日最低零下30℃にも下るが
そんなきつい事は一冬または一夏を通じて幾日というほどしかない。
年中空気が乾燥しているから、湿気の多い日本の東京や、大阪などの冬または夏よりも、健康地であるだけ遥かに凌ぎよいといわねばならぬ。
ただ晩春蒙古風に襲われるとき、黄塵万丈、天日光を失うことがあるのが欠点というべきであるが、
八月より十一月までの秋季に際しては、天高く気澄み、
ことに月夜の寥廓なるが如きは、日本などにて味わうべからざるものがある。

 位置はおおよそ直隷省の中央にあって、
滄海東をめぐり、大行西を擁し、古北、居庸の諸関北を守り、南の方黄河の大平原を帯ぶ。
形勝誠に天下に甲たりと称せらるるが、
昔の長安や洛陽が十八省の中央、当時文化の中心に位して崤函の固をたのんだに比べると、少しく北に偏している恨がないではない。
元来支那の帝王の宅たる、洛陽にしろ、長安にしろ、
爾来幾多の変遷があった鄴都卞京の類、いずれも多く王者の故郷に近い、
すなわち支那文化の中心部に都をさだめたのであるが、
北京に都城を定めたのは遼が会同年間(西紀936年)ここを南京としたのが最初で、
爾来金、元、清いずれも東胡人でなければ、蒙古人である。
すなわち外夷の都であるから、南方九州の野を抑え退いて祖宗発祥の地を守るため文化の中心を離れて、便宜上適当の地を選んだのである。
明の永楽帝がこの地に都したのもまた重きを龍興の地に置き、
あわせて北人制御の便を考えたのであったが、満人の勃興するやもろくも亡んだ。

 けだしこの地北に対しての守りは弱い。
長城一重が喚問で懸軍容易に高きより低きに下る地であるからである。
換言すれば北の勢力に対しては敵しがたい都である。
上古燕が薊丘にあった当時はたとえ帯甲百万であったとするも、
文化の中心に遠いだけに、内天下の形勢を制するに足らなんだが、
五胡の乱にあって鮮卑族の慕容氏が遼東から出て、ここによるとともに、
辺垂防御の要鎮たるの素地を示し、隋代には東征の関門となり、
唐代に安禄山が范陽軍節度使となるや、容易に天下を動かしうるの勢いを得たのも、
まったくこの地の形勢に北方の力の加わったことに起因している。
爾来おおよそ千有余年近世の支那の政治尾はこの地を中心として回転した故に、
民国のはじめ、しばし南京に臨時政府があったが、
やがてこの地を首都として今日に及んでいるのも無理はない。

 しかし北人にしてここによるはよいが、南人にしてここに居るは悪い。
元明両代その糧を江南に仰がねばならなかった土地であるから、
糟運に浮身をやつし、これをこの都の欠点と論じる人もあった。
今日では節路四通して、運河の要なきのみか、
郊外の開墾特に進捗したるがために、
粱粟南下してまた欠乏を感ずるなく、海運の利または近く天津を控え、
この糧食問題は心配せなくともよい。

 しかし何といっても北方の物資は貧弱である。
たとえ京奉京綏の両線により、北方棗粟の利を集中しうるとしても、
到底長江一帯の膏沃の産に比すべからず。
加うるに漢人文化の中心は南宋以後すでに東南に傾き、
江蘇浙江から更に広東に波及している。
故に現在の漢民族を統一するにはどうしても北京は北に偏している。

 





~>゜)~<蛇足>~~

 最高気温が38℃以上: 原文では華氏100度以上と書いてありましたがわかりやすく摂氏表示にしました。
 なぜかこの本、単位が混在していてわかりにくいです。

 燕京: 北京の別名です。


~>゜)~<蛇足2>~~
 突然ですが、間を飛ばして、北京編を始めることにしました。
 

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