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Pengzi de 雑記帳
中国に関する雑記、備忘や現在住んでいる蘇州の様子などなど
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著者旅行行程略図 (0-00)


第一章 上海へ (1-00)
 揚子江口 (1-01) 前編 中編 後篇
 上海   (1-02) 前編 中編 後篇
 上海の通貨(1-03) 前編    後篇
 過去の上海(1-04) -01  -02 -03 -04
 上海の発展(1-05) 上海の発展

第二章 江南の風物
 杭州へ  (2-01) 前編 中編 後編 
 杭州西湖 (2-02) 前編  ←NEW!!!
 城隍廟
 夏服
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西湖より包頭まで 2 江南の風物 -02 杭州西湖 前編

 禹貢の揚州当時は草莽の地、春秋に越。
戦国に楚に属し秦の会稽郡銭塘県となり、
漢代に会稽郡西部都尉の地所であったが、
隋唐に杭州余杭郡といい、
五代には銭鏐が呉越国を建て、
宋に入って再杭州の名を襲うた、
建炎三年以後南宋の都となって京師臨安府といい。
元代は杭州路といい明清これに倣うて杭州府を置いた。

 隋唐以後地方の風気大に開け、有名な白居易は穆宗の時刺史となって銭塘江の治水に成績をあげ、
宋代には范仲淹が皇祐年間(1049-1054)の知州、
蘇軾が熙寧以後通判となり元祐(1085-1095)に知州となった所で、
湖中には今も白公堤蘇公堤の名を残している、
当時は実に支那文物の中心であったが、1129年以後南宋の首都として末年には文天祥の如き名臣を知府にした歴史がある。
十三世紀にマルコポーロが着てKinsayの記事を書きThe City of Heavenと称賛したのであったが、これは今も諺に云う『上に天堂地に蘇杭という語の意訳でキンサイとあるのは京師の転訛だとの事である。

 ポーロの旅行は北京から運河に沿うて南下し鎮江、蘇州、杭州をへ福州を通り、泉州から海路波斯に出たのであるが、支那のこれらの都邑の記事を余程詳細に書いている、
臨安は宋の亡んだ翌々年1237年大火に逢ったのであるけれども、大運河の終点として当時尤も有力なる港市であったから、直に恢復してポーロが来た1291年頃には、輪奐の美或は今日以上であったかもしれない。
何となれば今の杭州は咸豊十一年長髪賊の乱にあい、其後四年間に数度の兵焚をうけたので、今日に至っても旧態完からずと称されているほどであるからである。

 車站を降りるとすぐ前の広場に雲集する囂々たる苦力の中から人力車を拾って、直ちに東西の大街を歓楽巷に出て太平坊を南下し、小平巷を西に呉山に上る。

 道の狭さ、二間とは無い、石で畳んだ町の凸凹と、不潔な両側の町家の燻った屋根を見るとこれが天堂かと疑われる、
租界は城の北、武林門外約2マイル。大運河の最南端拱宸橋一帯の地にあって、下関条約で開港した所、そこ迄ゆけば街路も広く整然として、洋館なども見られるのであろうが、
ここ城内であるから始めての観光客にこれはひどいと思わしむるが、さて呉山の第一峰に上るとやっぱり美わしい都である、
明の太祖ならずともこの形勢の地に立って百万の瓦を下に遠く銭塘江をながめ、脚下に西湖の碧水を隔てて、遥かに天目諸山の峩々たるを見る時、誰か三嘆せざらんやである。
城隍廟黄潤寺などの寺観あるも見るべき価値少なければやがて下山。



~>゜)~<蛇足>~~
長髪賊の乱: 「太平天国の乱」のことです。


~>゜)~<蛇足2>~~
杭州の歴史については、かなり前に友達向けに書いたものがあります。
興味のある方はどうぞ→ 「ぽんずの杭州の歴史


~>゜)~<蛇足3>~~
ご参考までに東方見聞録はこちらを読んでいます。
完訳 東方見聞録〈1〉 (平凡社ライブラリー)
完訳 東方見聞録〈2〉 (平凡社ライブラリー)』。

 

西湖より包頭まで 2 江南の風物 -01 杭州へ 後編

 この水車の外に江南の野に目をひくものがも一つある。
それは墳墓である、
田と云わず畑と云わず村落に近づくと円い土の墳墓を見る、
中には松柏の緑のかげに祠堂があり、あるいは円墓の美はしきを並べた特定の墳墓もあるが、
普通は至る所の田圃に無暗に円墳を作るものらしい、
見れば木棺を地上に置き藁屋根をきせたに止まるものもあれば、
棺の周囲に子煉瓦を集め重ねたものもある、いづれにしても円墳でない粗末なことだ。

 重葬の国にこれは不思議と尋ねて見ると、
通訳の王氏は曰く長幼の序を失いて先立てるもの、あるいは風水により相令家の言に従い、
土葬し得ざるものの墓である 
しばらく土上に置くゆえにこれを権厝(ケンツウ)というと、
厝にして終に葬られず、半ば腐朽せるものもある。
他郷の人偶ま死して葬ること能わず、しばらく帰郷の期を待つ間殯することもある、
これは殯舎とて風をよけたる立派な建築物に鍵をかけた所で
屍体預所とでもいわるべき所であるがこれは田舎にはない、
したがって厝に逢うものは余程不運と諦めねばならぬ、
北支那では円墳の前に石碑のあるのが多いが、江南ではそれが少ない、
しかしそのもっとも丁重なるものは墳塋の堂々たる千金を費やして及ばざるものも少なくない、
硤石駅の小さい丘の上にあるものの如き尤も優れたるものの一つである。

 嘉興からさきは所々に古代の火成岩の山があって、土地も高いから水田は変じて桑圃となる、
我が国の刈桑のようなのは見当たぬが、高作りで其の葉の瑞々しき茂りを見ると、
さすが養蚕の本場に来たと思わしむる。
臨平駅に着く前にはじめて江南の大運河を横ぎる、
幅もせまく水も濁っているが、民船の輻輳は盛んなものだ。
ついで杭州城壁を見る艮山門は北にあり、東へ廻って城壁を破って清泰門内の停車場につく、
ここで下車いよいよ杭州見物に入る。




~>゜)~<蛇足>~~
かつて、初めて北京から離れたときに、
南に行けば行くほど、田畑や丘などに墓が増えてるのに驚いた記憶があります。

著者が田畑などにあるお墓について興味深く書いていますが、
かつて、東北本線の鈍行列車に乗り合わせた某国留学生にはやりお墓について聞かれました。
あちらこちらに見かけますがいったい何なのか、外国の方にはわかりませんよね。






西湖より包頭まで 2 江南の風物 -01 杭州へ 中編


 民家を見ると多くは瓦葺で牆壁も壁も、同じ形の煉瓦で以て、一廓に築き上げ、
たまには草葺のものもあるが煉瓦に意匠をこらして屋根の端をそらしているのが多い、
それよりも眼につくのは母屋の両側、破風に当たる所に凸形左右三段に抽んでた白壁を立て、
屋根よりも高く超越して其の頂と両肩に古屋根を置いた隔壁の形である、
意匠をこらさ遺て中々振ったものがある。夕日をうけた其の屋並のけしきは格別だが、
これは田舎のみでなく、町家にもあって上海では波形の隔壁が多い。
江南の町はこれがある為めに、展望すると人家櫛比して、いかにも景気がよく見える、
しかも画趣に富んでいて、同時に火災の蔓延を防ぐ利がある。

 我国奈良平野の民家の多くが急峻な藁屋根の母屋を立てて、
その両側に瓦で葺いた隔壁をつくっているのもこの江南の風を移したものであるらしい、
あの国中の高い屋根と白壁が生駒葛城の翠緑にふさわしいように、
江南の民家の隔壁は塔と橋との国に似つかわしい趣を占めている、
ついでにいうが、近畿の都邑にはこの隔壁の名残をとどめて隣の家と家との境目即二階の両端に、
目かくし様の羽建(ウダチ)をつけている所が多い、
古い城下町などことに丁寧に出来たのを見受ける、
これも支那文化の影響の名残であるとかつて内藤博士から教えられたことを思い起す。
ただしこの江南の屋根の形は山東から大連附近迄に拡がっているが、
直隷に入るとまったく趣が変ずる、これも亦注意すべき事実である。

 森と塔と民家の屋根とに離れると、あとは一面の田圃、縦横に横はれる運河溝渠、行けども行けども其の状は変らず。これら浦涇溝渠の揚子江又は黄埔に通ずるものは黄濁をなし民船の往来を見るが、中には全く澄みきった清水の渠がある、図を案ずれば澱山湖に通ずるものである。

 江南一帯これらの渠の水面は田の面よりも3尺ないし6尺位低いのが例である。
見渡す限りの田の面は稲の結実期で灌漑の最重要な時期であるから、
この低い清水を田の中に汲み入れるために、
男が三人もかかって一の水掲車を踏んでいるものもあるが、
多くは牛に水車を曳かしている。
それは龍車と称するもので魏の馬鈞が紀元三世紀頃に発明したもの、
蘇軾の水車の詩に自ら註して江浙間人木水車為龍骨車と記した所のもので
あるいは翻車ともいい千数百年の農具である。

 田の大さは60間に10間2反内外もある長方形が多い、
株裁にした稲が我国の水田と同様に秀でていると、
これに沿うた溝によって、一つの田に一つの龍車が取りつけてある、
それが列をなして円い草屋根が十数個も並んで、中に婦人又は子供が牛の番をする、
牛は車のふちを倦まず倦まず歩む、
車が回わると軸につけてある連綴の木板が回転して槽の下から水を上方に送りだすのであって、
誠に太平の風致である。江南の糧はかくの如く半ば牛馬の灌漑によってつくられる。











龍骨車



西湖より包頭まで 2 江南の風物 -01 杭州へ 上編


 8月14日午前6時起床杭州を見物せんものとて王某なる通訳を雇い、
午前七時上海北站に至り直ちに出発、滬杭甬鉄路の客となる、
この鉄道は上海寧波間324マイルで1898年滬寧線と共に英国銀公司(匯豊及恰和洋行)の敷設権を得た処のものであったが、
地方民の反対で1905年英国との契約を破棄せんと企てたが成功せず、
敷設の実権は英国の手に帰し、1905年、本鉄道の為に150万ポンドを借入
1910年上海杭州間122マイル哩余を開通したが杭州寧波の間は銭塘江に隔てられ、
寧波曹娥間だけが1915年に開通し、残りの曹娥杭州50マイルは橋材欠乏のため未開通の状にある。

 支那の鉄道はこの線路のように外国借款を有せざるはない、
本鉄道の如きも英国借款の外に、1912年1月大倉組から、南京臨時政府の財政窮乏を救済するために、20万ポンドを貸し、その担保に取った事もある程であるが、
英国はこの大倉組の行動を目して自国の勢力範囲を侵害するものとした為に、1914年に支那公使の手から直接大倉組本店に250万円を返金したという歴史がある、
広軌4フィート8インチのゲージで、上海北站杭州まで23站を設け、松江嘉善、嘉興の三県を通過する。
特別急行一日2回、急行1回、普通1回、上海嘉興間1回、都合で一日5回しか汽車が通らないのと、乗客の箱の数も10輌以下であるから、
これでは借款の利子を払い、営業費を差引したらば、残りの純益も少ないだろうと思われるが、
その旅客及収入等、年を重ねて膨張し、日下一年間に凡そ450万の人が運れている、
一二等席には差向いの腰掛があってその中間に造りつけの卓子があり、茶や中食を置く場にしてある。
茶は白陶器細い取手のある土瓶に入れ、何回でも湯をさしにくる、
中食も感じのメヌーで牛肉茶(スープ)、酢魚(フライ)、嚼牛仔(ビフテキ)、白粉凍(ジェリー)等と記してある。
味も悪くない、量も多い。支那の食物は廉価であることがうれしい。

 この列車の通る所は、禹貢に所謂揚州で「厥草惟夭、厥木惟喬、厥土惟塗泥、厥田下下」と評した地で、
当時土地卑湿で北方のように畑作に適しないから、下の下という事になっているが、水田としては上の上であり草木のようによく繁る所である。
汽車から見渡せば村落はすべててんこもりした森林の中にあり、四顧茫々溝渠とその並木との平板な土地を塔と橋とによって著しく美化している。
汽車の窓からもっとも目につくのは、あまり高くない禿山の上にあるいは城壁のかなたに空に聳ゆる塔である、
一方に森があり高い山を背景にして一方の低い山、その辺に塔がありそうなと見てゆくと果たしてそこに木々の煩をうけずに一本の塔が超然として独立している、
何とはなしに有難い目標を授けられた気がする、
橋は石又はレンガで畳んだ拱橋、俗に眼鏡橋で、運河面に高く塞がれているのに出逢う、
不細工な格好だが馬鹿に調子がよくうつりがよい、
嘉善嘉興などという小さい県城の城壁が灰色の頑丈なレンガでとりまかれている辺り、
運河をへだてて汽車が通るとき、森と塔と水と家と、しかして橋とまさに一幅の絵画になる。
こわれかけた城壁の目障りにならぬのも面白い。


~>゜)~<蛇足>~~
いよいよ題名にもなっている西湖のある杭州へ。
現在は、高速鉄道(中国版新幹線)が上海と杭州を約一時間で走っています。
本文中で上海北站から杭州まで23站となっていますが、
現在は、上海駅から杭州駅まで10駅です。
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