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Pengzi de 雑記帳
中国に関する雑記、備忘や以前すんでいた北京・蘇州の思いでなどなど
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西湖より包頭まで 1 上海へ -05 上海の発展

 上海が西洋人の注意に上ったのは十八世紀で極めて最近のことである、
1756年東印度商会のピグーがこの地へ探検者を出したに始まり、
1832年には軍艦ロード・アムホスト号を遣わし、東印度会社の代表としてハミルトン リンジィが乗込み、通訳に宣教師ギュツラフがついて来た、
同年6月21日上海に上陸して道台に海港を談判して埒が明かなかったが、
このときからこの港に目をつけて
10年後の阿片戦争には、パーカーの艦隊が1842年6月16日に呉淞を攻撃し、
二日の後直ちに上海を占領し、南京条約の結果1843年11月17日に至り、支那政府は当時上海に在留中の英国領事バルフォア氏を通じて上海海港の事を公布したのであった。
バルフォア氏は英国民のため、今日の所謂英租界の基を開き鋭意下水とか道路の改善を計ったために、居留外人漸く多くなった、
しかし当初外人のこの地に居住するもの僅に23戸で同年入港船舶は僅に44艘に過ぎなんだとの事であるが爾来78年今日では外人26,000を算し、旧英租界のバンド、南京路一帯の如き各国の商館銀行等櫛比して、目まぐるしいビジネスセンターを作るに至ったことを見れば実に隔世の感がある。

 かように百般の施設の駸々として進歩を遂げたなお一つの理由には1853年の太平天国の乱である。
洪秀全一味の賊軍が四隣を蹂躙し、上海亦其戦禍を蒙り、住民戦々兢々として其堵に安ぜざりしも、
幸いに租界は英軍及義勇軍の守備が堅かった為め、乱民も其毒刃を逞うすること能わず、
為めに租界は一時四辺領民の避難地となったが、
その結果避難民は租界の安穏に慣れて永住することになり、店舗を開く者多く上海城外に一朝にして繁華の巷が出来た、
乱平定の後仏米租界相継で新設せられ、後に英米租界を合して各国の共同租界としたゆえに今日では仏国のみが専管居留地を擁している。

 共同租界の市政は1854年の租界章程に従い、
1855年租界政庁(支那名工部局)を設けたのに始まる、
現在九人の会員よりなる市参事会の執行する所で、九人の会員は英人六名米人二名日本人一名から成立している 
多年築き上げた英人の勢力が尤も大であるのだ。
けだし工部局は上海租界の最高行政機関で、各国領事団之が直接監督権を有し、支那政府の容喙を許さない、如此外国の行政地域を存する所は上海のみでなく各海港場何れも居留地を設定しているところは同様である。
かく居留地又は租界と称するものの出来た根源はと云えば全く南京条約で、
その第二条に広東厦門福州寧波上海に英国臣民が自由に居住貿易を為す権を取得した
に基づき、翌々年の米清条約及仏清条約にも、同様の取極をなすに至ったに始まる。

 かくてこれらの租界はその後支那人の避難地となり、一歩をすすめて政治上の失脚者亡命の輩の極めて安全な逃避地域となるに至ったのである。
もし一朝にして蹉跌するとやがてはここに逃げ込むと云うようなことになり、結局政治を遊戯化するの気分を導くに至ったのである。
これは支那の近世史上著しく目につく事であるが、一上海の発展という事のみの問題でなく、支那建国の基礎に影響している大問題である。
地文的にも人文的にも上海に就いて考えさせられる事は数限りない。


~>゜)~<蛇足>~~
上海の発展..と当時の事を書いていますが、
今となっては「今は昔」
それでも面白い部分です。
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