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Pengzi de 雑記帳
中国に関する雑記、備忘や以前すんでいた北京・蘇州の思いでなどなど
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西湖より包頭まで 1 上海へ -04 過去の上海 -03


 華亭境古図によると上海鎮は紹興二十九年(1159)罷市舶とあって
熙寧以后85ケ年間しか市舶司が置かれていないのに、
青龍鎮の方は、「大観元年(1107)以鎮治水利、兼領市舶、元至元九年(1272)罷属上海」、とあるから、およそ165年間というものは、この上流の方が海外貿易の要港であったのである、
それから20年をへてこの上海市を陞して県にするに至ったのであるからおそらくその時は蘇州河も浅くなったのであろう。
上海県志に元至元二十九年折華亭東北境地、置上海県、此立県所自始也とあるのがそれである。
しかも「元建県後二百六十余年猶無城、故前明倭寇数躪焉」とあって、
最初は城壁もなく、茫々たる河口の浮州のような所に長人、高昌、北亭、新江、海隅という五つの郷が出来たのを上海県としたにすぎなったのであるが、
同三十二年には郷人顧従礼の建議によって倭寇を防ぐための上海県城壁周囲9支里2丈4尺のものが出来たのであった(1553)。

 顧氏の建議文によると、「最初の城垣の守る所なきは、一は事草創に出で庫蔵銭糧未だ多からざると、一は地方の人半ば海洋貿易の輩で、武芸にも通じていたから、海寇も敢て来犯しなかった為である」と説いてあって、
建県当時の様子を明にし 
次に今編戸600余里、農商の民も増加し容易に海賊に掠められる。
これは全く無城の故であると論じている。以て十六世紀の初めにおける様子を知るに足るのである。

 さて蘇州河もその後やがて淤積し、明初には夏原吉の大工を要するに至ったのである。
銭中諧の呉淞江淪を読むと「夫夏公之時呉淞濶150丈、至隆慶間而旧蹟止存三十丈」とある、
してみると明永楽の時なお150丈もあったのに、150年後の隆慶年代には30丈の広さに縮まったのであるが、
今日この川の黄埔に合する所では幅凡120嗎(30余丈)であるから明の中期以後川幅は略安定したと見てよい。
しかるにその水深を濬めて疎通をよくすることは、単に交通上のみの問題でなく、
水利灌漑上からも必要であるから、巡撫慕天顔をはじめ歴代注意して来た。
それが今日では上海港というものの生命を全うする上において更に重大な問題になって来たのである。

 さきにも述べた通り上海へ大艦船が遡江する際の障害は江口東沙の南より、揚子江岬砂堆の間に拡がるFairy plat30カイリの外に、呉淞江口の外閂州(アウターバー)と称する暗沙がある、
呉淞江から黄埔を遡る13カイリの間も亦淤沙の著しきものがありここに内閂州(インナーバー)がある、
これらの淤沙を浚渫して大洋航海の船を安全に出入せしむる為めの黄埔江改修工事と称する事業がある、
しかもこれは実に現今将来の大事業で其解決如何は実は上海の死命を制するものである。
もしこれを棄てて顧みずんば期年ならずして白茆、劉家の轍を踏むであろう。



上海鎮隷華亭境図

~>゜)~~~
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