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Pengzi de 雑記帳
中国に関する雑記、備忘や以前すんでいた北京・蘇州の思いでなどなど
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西湖より包頭まで 2 江南の風物 -01 杭州へ 上編


 8月14日午前6時起床杭州を見物せんものとて王某なる通訳を雇い、
午前七時上海北站に至り直ちに出発、滬杭甬鉄路の客となる、
この鉄道は上海寧波間324マイルで1898年滬寧線と共に英国銀公司(匯豊及恰和洋行)の敷設権を得た処のものであったが、
地方民の反対で1905年英国との契約を破棄せんと企てたが成功せず、
敷設の実権は英国の手に帰し、1905年、本鉄道の為に150万ポンドを借入
1910年上海杭州間122マイル哩余を開通したが杭州寧波の間は銭塘江に隔てられ、
寧波曹娥間だけが1915年に開通し、残りの曹娥杭州50マイルは橋材欠乏のため未開通の状にある。

 支那の鉄道はこの線路のように外国借款を有せざるはない、
本鉄道の如きも英国借款の外に、1912年1月大倉組から、南京臨時政府の財政窮乏を救済するために、20万ポンドを貸し、その担保に取った事もある程であるが、
英国はこの大倉組の行動を目して自国の勢力範囲を侵害するものとした為に、1914年に支那公使の手から直接大倉組本店に250万円を返金したという歴史がある、
広軌4フィート8インチのゲージで、上海北站杭州まで23站を設け、松江嘉善、嘉興の三県を通過する。
特別急行一日2回、急行1回、普通1回、上海嘉興間1回、都合で一日5回しか汽車が通らないのと、乗客の箱の数も10輌以下であるから、
これでは借款の利子を払い、営業費を差引したらば、残りの純益も少ないだろうと思われるが、
その旅客及収入等、年を重ねて膨張し、日下一年間に凡そ450万の人が運れている、
一二等席には差向いの腰掛があってその中間に造りつけの卓子があり、茶や中食を置く場にしてある。
茶は白陶器細い取手のある土瓶に入れ、何回でも湯をさしにくる、
中食も感じのメヌーで牛肉茶(スープ)、酢魚(フライ)、嚼牛仔(ビフテキ)、白粉凍(ジェリー)等と記してある。
味も悪くない、量も多い。支那の食物は廉価であることがうれしい。

 この列車の通る所は、禹貢に所謂揚州で「厥草惟夭、厥木惟喬、厥土惟塗泥、厥田下下」と評した地で、
当時土地卑湿で北方のように畑作に適しないから、下の下という事になっているが、水田としては上の上であり草木のようによく繁る所である。
汽車から見渡せば村落はすべててんこもりした森林の中にあり、四顧茫々溝渠とその並木との平板な土地を塔と橋とによって著しく美化している。
汽車の窓からもっとも目につくのは、あまり高くない禿山の上にあるいは城壁のかなたに空に聳ゆる塔である、
一方に森があり高い山を背景にして一方の低い山、その辺に塔がありそうなと見てゆくと果たしてそこに木々の煩をうけずに一本の塔が超然として独立している、
何とはなしに有難い目標を授けられた気がする、
橋は石又はレンガで畳んだ拱橋、俗に眼鏡橋で、運河面に高く塞がれているのに出逢う、
不細工な格好だが馬鹿に調子がよくうつりがよい、
嘉善嘉興などという小さい県城の城壁が灰色の頑丈なレンガでとりまかれている辺り、
運河をへだてて汽車が通るとき、森と塔と水と家と、しかして橋とまさに一幅の絵画になる。
こわれかけた城壁の目障りにならぬのも面白い。


~>゜)~<蛇足>~~
いよいよ題名にもなっている西湖のある杭州へ。
現在は、高速鉄道(中国版新幹線)が上海と杭州を約一時間で走っています。
本文中で上海北站から杭州まで23站となっていますが、
現在は、上海駅から杭州駅まで10駅です。
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西湖より包頭まで 1 上海へ -05 上海の発展

 上海が西洋人の注意に上ったのは十八世紀で極めて最近のことである、
1756年東印度商会のピグーがこの地へ探検者を出したに始まり、
1832年には軍艦ロード・アムホスト号を遣わし、東印度会社の代表としてハミルトン リンジィが乗込み、通訳に宣教師ギュツラフがついて来た、
同年6月21日上海に上陸して道台に海港を談判して埒が明かなかったが、
このときからこの港に目をつけて
10年後の阿片戦争には、パーカーの艦隊が1842年6月16日に呉淞を攻撃し、
二日の後直ちに上海を占領し、南京条約の結果1843年11月17日に至り、支那政府は当時上海に在留中の英国領事バルフォア氏を通じて上海海港の事を公布したのであった。
バルフォア氏は英国民のため、今日の所謂英租界の基を開き鋭意下水とか道路の改善を計ったために、居留外人漸く多くなった、
しかし当初外人のこの地に居住するもの僅に23戸で同年入港船舶は僅に44艘に過ぎなんだとの事であるが爾来78年今日では外人26,000を算し、旧英租界のバンド、南京路一帯の如き各国の商館銀行等櫛比して、目まぐるしいビジネスセンターを作るに至ったことを見れば実に隔世の感がある。

 かように百般の施設の駸々として進歩を遂げたなお一つの理由には1853年の太平天国の乱である。
洪秀全一味の賊軍が四隣を蹂躙し、上海亦其戦禍を蒙り、住民戦々兢々として其堵に安ぜざりしも、
幸いに租界は英軍及義勇軍の守備が堅かった為め、乱民も其毒刃を逞うすること能わず、
為めに租界は一時四辺領民の避難地となったが、
その結果避難民は租界の安穏に慣れて永住することになり、店舗を開く者多く上海城外に一朝にして繁華の巷が出来た、
乱平定の後仏米租界相継で新設せられ、後に英米租界を合して各国の共同租界としたゆえに今日では仏国のみが専管居留地を擁している。

 共同租界の市政は1854年の租界章程に従い、
1855年租界政庁(支那名工部局)を設けたのに始まる、
現在九人の会員よりなる市参事会の執行する所で、九人の会員は英人六名米人二名日本人一名から成立している 
多年築き上げた英人の勢力が尤も大であるのだ。
けだし工部局は上海租界の最高行政機関で、各国領事団之が直接監督権を有し、支那政府の容喙を許さない、如此外国の行政地域を存する所は上海のみでなく各海港場何れも居留地を設定しているところは同様である。
かく居留地又は租界と称するものの出来た根源はと云えば全く南京条約で、
その第二条に広東厦門福州寧波上海に英国臣民が自由に居住貿易を為す権を取得した
に基づき、翌々年の米清条約及仏清条約にも、同様の取極をなすに至ったに始まる。

 かくてこれらの租界はその後支那人の避難地となり、一歩をすすめて政治上の失脚者亡命の輩の極めて安全な逃避地域となるに至ったのである。
もし一朝にして蹉跌するとやがてはここに逃げ込むと云うようなことになり、結局政治を遊戯化するの気分を導くに至ったのである。
これは支那の近世史上著しく目につく事であるが、一上海の発展という事のみの問題でなく、支那建国の基礎に影響している大問題である。
地文的にも人文的にも上海に就いて考えさせられる事は数限りない。


~>゜)~<蛇足>~~
上海の発展..と当時の事を書いていますが、
今となっては「今は昔」
それでも面白い部分です。
西湖より包頭まで 1 上海へ -04 過去の上海 -04


 さてこの黄埔江改修事業は北清事変最終議定書の規定により1905年の改定をへ、1906年より10年に亘り技師長ライク氏の計画に従ったもので、この期間に
(一)呉淞江内外砂灘の除去と行い、
(二)もと汽船水道(old ship channel)と名けて迂回していたのを廃し、民船水道を浚渫してこれを直線し、
(三)黄埔江全水道を整理して呉淞より揚子江中に突出せる4,700フィートの導水堤を完成し、外閂州を水勢によりて押流すこととし、内港は川幅700フィートとし平均低水時に水深を21フィートにすることにした。

 しかしこれでもというので、1912年に現水路局技師長ハイデンスカイム氏によって更に平均低水時水深24フィートに深かめ、延長八哩、桟橋線28,000フィート、倉庫収容力正に80万トンに達することにした。
しかしながら世界の航運は益々進んで大船主義になるから、少くとも吃水33フィート以上の大船が横付けになるように改修しなくてはならぬ。
これが将来に残された上海港の大問題である。
故にこの改修工事に関して濬浦総局なるものが、
上海支那政府代表者、税関長、港務長を以て組織せられ、
別に諮問局とて上海港へ出入する船舶の最大トン数を有する五ヶ国より一名宛選出する委員によってつくられたものがあり、
この事業の維持改修に供する財源として、上海税関の総出入品に対する附加税百分の三及其他を徴しているのである。
しかしそれほどの経費で以て、現在よりも10フィート近く数10マイルの砂灘を除去することは中々容易でない、
しかもその所へあの濁流揚子江からの砂が沈まないようにどうして出来るだろう、
かりに濬めてもすぐ様埋まるから、これを埋まらぬようにすることは恐らくは不可能であろうと思われる、
ここにおいてか上海築港問題として諸種の計画が案出される。

 あるいは松江と太湖江陰の間に大運河をつくり、江陰から揚子江の水を入れ、黄埔の水を高めようと云うものもあれば、
或は呉淞江口に丈夫な水閘をつくって7フィート以上水面を高めると云う考とか、
或は揚子岬付近に港の口をつけかえるという考とか其他種々あるのであるが、
さしあたり港内最低水30フィートの深さに浚渫を行い、
黄埔江口左岸附近において大船用の接岸繫舶所を増設しようという事になっている、
これと同時にFairy plat(神灘)の深度18フィートに過ぎざるところもまた浚渫せしむることになった、
思うてここに至れば、禹貢に三江既入、震澤底定と導破されてこの方四千年、
三江の運ぶ土砂は今日に至って、猶其底定する所を得ないと云うべきであろう。
西湖より包頭まで 1 上海へ -04 過去の上海 -03


 華亭境古図によると上海鎮は紹興二十九年(1159)罷市舶とあって
熙寧以后85ケ年間しか市舶司が置かれていないのに、
青龍鎮の方は、「大観元年(1107)以鎮治水利、兼領市舶、元至元九年(1272)罷属上海」、とあるから、およそ165年間というものは、この上流の方が海外貿易の要港であったのである、
それから20年をへてこの上海市を陞して県にするに至ったのであるからおそらくその時は蘇州河も浅くなったのであろう。
上海県志に元至元二十九年折華亭東北境地、置上海県、此立県所自始也とあるのがそれである。
しかも「元建県後二百六十余年猶無城、故前明倭寇数躪焉」とあって、
最初は城壁もなく、茫々たる河口の浮州のような所に長人、高昌、北亭、新江、海隅という五つの郷が出来たのを上海県としたにすぎなったのであるが、
同三十二年には郷人顧従礼の建議によって倭寇を防ぐための上海県城壁周囲9支里2丈4尺のものが出来たのであった(1553)。

 顧氏の建議文によると、「最初の城垣の守る所なきは、一は事草創に出で庫蔵銭糧未だ多からざると、一は地方の人半ば海洋貿易の輩で、武芸にも通じていたから、海寇も敢て来犯しなかった為である」と説いてあって、
建県当時の様子を明にし 
次に今編戸600余里、農商の民も増加し容易に海賊に掠められる。
これは全く無城の故であると論じている。以て十六世紀の初めにおける様子を知るに足るのである。

 さて蘇州河もその後やがて淤積し、明初には夏原吉の大工を要するに至ったのである。
銭中諧の呉淞江淪を読むと「夫夏公之時呉淞濶150丈、至隆慶間而旧蹟止存三十丈」とある、
してみると明永楽の時なお150丈もあったのに、150年後の隆慶年代には30丈の広さに縮まったのであるが、
今日この川の黄埔に合する所では幅凡120嗎(30余丈)であるから明の中期以後川幅は略安定したと見てよい。
しかるにその水深を濬めて疎通をよくすることは、単に交通上のみの問題でなく、
水利灌漑上からも必要であるから、巡撫慕天顔をはじめ歴代注意して来た。
それが今日では上海港というものの生命を全うする上において更に重大な問題になって来たのである。

 さきにも述べた通り上海へ大艦船が遡江する際の障害は江口東沙の南より、揚子江岬砂堆の間に拡がるFairy plat30カイリの外に、呉淞江口の外閂州(アウターバー)と称する暗沙がある、
呉淞江から黄埔を遡る13カイリの間も亦淤沙の著しきものがありここに内閂州(インナーバー)がある、
これらの淤沙を浚渫して大洋航海の船を安全に出入せしむる為めの黄埔江改修工事と称する事業がある、
しかもこれは実に現今将来の大事業で其解決如何は実は上海の死命を制するものである。
もしこれを棄てて顧みずんば期年ならずして白茆、劉家の轍を踏むであろう。



上海鎮隷華亭境図

~>゜)~~~
西湖より包頭まで 1 上海へ -04 過去の上海 -02


 かようにこの地方の海港なるものには変還があるが、
それは主として太湖からでる水道の出口にある船着場が淤砂の為に止むなく其機能を発揮し能わぬ所から生ずるもので、
宋時にはかかる水道の江及海に通ずるもの二十四浦と称せられ、
中にも五大浦とて、茜涇、下張、七鴉、白茆、許浦などが重要な港であった。

 この中白茆は宋嘉祐二年范仲淹の開浚があり、
元の季張士誠が兵民十萬を発し、浚治すること長さ九十余里広三十余丈と称せられた所である。
明の『海道経』には、
「劉家港出揚子江南岸候潮長、沿西行半日至白茆港」、
と記し劉家より西へ白茆に至るのは
劉家から山東をへて直沽に達する当時海運の公道であり揚子江に於ける重要な海港の一であった。
故に明の嘉靖年代(一六世紀)には、闊33丈深1丈5尺もあったとの事であるが、
これも康熙時代には巾2丈ないし1丈5尺、深4、5五尺に淤積した。
かかる類例は枚挙に遑がない故に呉卓信の語に、
「自宋至今沿海之河、開濬不知凡幾、未久皆為潮汐壅塞」
とある。

 黄與堅も『江南通史』に、
「太湖諸水、入海要道、其患在潮與汐逆而上、淀積渾沙日以淤塞、幾十年間必其濬之而與大工、役大衆不可以数挙」
と記したのである。
かような次第であるから上海の如く太湖から去る呉淞江、黄埔等の水道によって発達した都邑には、自からこの水道の淤塞という問題と不可離の関係を有すべきである。
しかしかように沖積地の発達ということが速かでなかったならば
上海も今日の所に生じなかったであろう。

 上海の地が海面に顕われたのは極めて新らしいことで、
唐代(九世紀)にはまだ華亭海という海で、
それが十世紀になってようよう民人の居住地となり、
十一世紀には相当な港となり、
十三世紀になって(元代)愈よ上海県となったのであるから、
沖積平原としても7、800年この方の土地である。それは『大明一統志』に
 「上海県在(松江)府城東北九十里、本華亭県地居海之上、旧曰華亭海、宋時商販積聚名上海市、元至元中置上海県」
と明記してあるので明らかである。

 この華亭県というのは今の松江のことで、
唐天保十年(752)に崑山、嘉興、海塩の地を割いて新置した県であって、
その県の東北に当って華亭海と称する。
恐らく大なる入り江のようなところが、漸次埋まって陸地となったのが、
宋代の上海であろう。
この類例は揚子江口の崇明島に見られるので、この島は唐代海中にあり、
宋建炎中(1127)に至り初めて沙上に人の住む所となったのであるが、
爾来益々其面積を増加しつつあるように、上海も其後陸地の増加に伴い、人口愈増加し、
元代の上海県の版画の中に今日では青浦、宝山、南匯、川沙の四県が分離独立するに至ったのである。

 かく年々に造花膨張する陸地を民人が占領する状について日本の『水路誌』に
 「毎年此ノ如クシテ自然ニ埋立テラレタル土地ハ附近ノ支那人之ヲ占有シ直チニ堤防をメグラシテ耕種ス」
とある通りで、
最初は湿潤の地に茭蘆が生じ、泥沙の沈澱を容易にすると、
やがて菱茨の類が蔓衍し、次いで有力者が稲田にするのである。

 かく土地の新成増加を考うると、上海市が宋時今の蘇州河口に出来た時、
黄埔が現状のように南北の主流であったか否やは明かでない。
黄埔の上流嘉興県の辺は、或は伝説の通り楚春申君が鑿ったかもしれぬが、
下流に至って南から北へ一大屈折をするは、
『明史河渠志』にある永楽元年及二年(1403)に夏原吉が蘇淞の水を治め范家浜を濬め、大黄埔に接し海に達せしむとあるに始まる。
即ち現在の黄埔江下流は十五世紀の初めに現れてくるのであるから、
それが十一世紀に同様であったとは考えられぬ、
『上海県志』に
 「宋元間諸蕃入貢皆由青龍鎮、故有舶提挙司之設」
とあるのを見ると、上海よりも寧ろ其上流蘇州河を遡ること水路20カイリの地点にある青龍鎮(旧青浦)のほうが当時重要な海港であったと考えねばならぬ。



~>゜)~<蛇足>~~

目で見たほうがわかりやすいと思ったので、
手持ちの歴史地図集から揚子江デルタの部分を切り抜き、
並べてみましたので、資料: 長江河口の海岸線の変化をご覧ください。
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