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Pengzi de 雑記帳
中国に関する雑記、備忘や以前すんでいた北京・蘇州の思いでなどなど
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西湖より包頭まで 1 上海へ -02 上海 中編

 午後2時電車にて徐家滙に向う。
市の西郊で青浦に通ずる小渠の屈曲点にある。
電車を下りてからはしばらく田舎になっている。
渠の幅一間半ぐらい、舟居の民が日中賭博をやっている。
暢気な郊外気分だ。

 ここの徐家滙天主堂は、明の神宗万暦年間に有名な徐光啓が、
その財産及び土地を寄付してできたものだが、
雍正年間に廃滅したのを、同治十一年に再建したもので、
ゴシック式の堂々たるものである。
この堂の西に光緒二十七年建造の新台がある。
これがすなわち有名な観象台で、
毎日世界各地の天文台及び気象台63か所と通信して
東亜一帯の気象情報を出しているところ。
参観して観測設備無線電信の受信室などを見る。
ここに立派な気象の図書室がある。出版の気象報告類も多い。

 ただしこの観象台に付属せる天文台は西60余里を隔てた松江府の北佘(シャ)山にあるにもかかわらず、
ここを徐家匯の天文台という人があるが間違っている。
この天主堂には観象台のほかに博物館、孤児院、蔵書楼など付属していて、
いずれも有名である外に、聖書及び教科書を印刷しかつ販売する土山湾印刷所があるから、
これに立寄って見る。
繁った並木途、古い高塀、陰気なところである。

 次に東亜同文書院を尋ねる。
右に宏壮な南洋大学の甍を見つつ、俥を馳せて虬橋路の校門につく。
阪本教授の案内をうけて、
教室、図書館、病院、食堂、寄宿舎等設備の完きに感心する。
教員住宅が路の向側にあるがここはあまりに狭い気の毒だと思う。
頃来敷地取拡げの計画があるとの事であるが、
南洋大学と輪奐の美を競うなどは、とてもであるから、むしろ内容の充実を図るといわれる
明治33年の創立で卒業生千数百を算し
支那各地に分布して大いに日支親善の実を挙げているというので誠にうれしい、
午後六時阪本氏の舎宅を辞す。
 
 徐家滙一帯は実に上海文化の発源地で茫々たる大平野、緑樹鬱蒼たる処 
ここかしこに洋館もあれば支那、民家もある。
美わしい郊外である、七時帰宿、この行二哩半。
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西湖より包頭まで 1 上海へ -02 上海 前編


 8月13日晴天、6時起床食事の後まず両替するに100円にて79ドルくれる。
慣れない銭勘定の国に来たと思う。
8時半領事館を訪い野田領事に来意を伝え、護照の下付をたのみ、
やがて矢田総領事に対面する。
元気溌剌たる快男子である。

 ついで鞄子路112番の東亜攻究会を訪ねて蔵書類を一見し、
文路20番の日本商業会議所を訪問して書記石田君から、上海商況の説明を聞く。
 
 午後2時電車にて徐家匯に向う。
市の西郊で青浦に通ずる小渠の屈曲点にある。
電車を下りてからはしばらく田舎になっている。
渠の幅一間半ぐらい、舟居の民が日中賭博をやっている。
暢気な郊外気分だ


 
~>゜)~<蛇足>~~

為替について触れられていますが、
先で詳しく紹介されているので、ここでは触れないことにします。
西湖より包頭まで 1 上海へ -01 揚子江口  後編


 午後5時過ぎようよう左舷に陸地が見えた。
低い防波堤で囲うてあるがこれを海塘と称する。
塘の中には葦が生えているらしい。
人家などは屋根だけしか見えない。

 ここで船は南岸に接近して通る。
圓圓沙とか鴨窩沙とか石頭沙とかいう砂堆が右舷に見える。
江の広いのとまたその砂洲の大規模なるに驚きつついよいよ呉淞口に入る。
浚渫がしてあるからここから黄埔江内は水深24フィートだというが、
一大湾曲をなした川であるから船脚は速くない。
江岸の葦の中に水牛の眠れるを見などしていると正面に仁丹の大きな広告が眼に入る。
やれやれ上海に来たと思う。

 午後6時、食堂で軽い食事が出る。まだ慌てないでもよいという。
しかしそろそろ旅装をトランクにつめ、上陸の用意をする。
やがて第8港区匯山埠頭につく。折から夕立気色でバラバラと降り出した。

 6時半になって上陸する。
この埠頭は郵船の桟橋で、隣に大阪商船の埠頭があり、対岸に日本海軍用地があり、
大阪商船の下手、第9港区には南満鉄道埠頭があり、
さらに上流の第5区呉淞江(蘇州河)の出口には郵船会社およびその碼頭がある。
日本人の経営せる碼頭の調子が馬鹿によいのでなんだか心丈夫な感がする。

 税関の検査などは旅館のものに任しておいて、
早速自動車に乗って西華徳路の豊陽館に入り、3階の日本室に通る。
この夜蚊帳吊らず一、二蚊の来るあるも安眠を妨げず、
熱気ことのほかはなはだしいので窓を開いたままで眠る。

西湖より包頭まで 1 上海へ -01 揚子江口  中編

 揚子江は世界有数の大河、崑崙山系の大高原に発して、
東に朝するまで3,102マイル、灌漑区域は約75万平方マイル、
9省の大部分にわたっているから、その放水量のはなはだ多く
6月の漢口にて毎秒100万立方フィート、
これに比例してその流下する土砂の量の驚くべきは、
現にこの船の通っている下にある大揚子砂堆の大きさでもしられる。

 この砂堆は灰色の斑点のある細砂で、堆上の水深13尋ないし20尋である。
江口から約76度東に向い、江口の沙尾山島(茶山)を距る125マイルの処まで伸張している。
その幅は西部で約30マイル、東端で10マイルだというから
速力21マイルのこの船が6時間を駛る間に拡がっているのである。
ガッピー Dr. Guppy の漢口における観測によれば、
揚子江の海に注ぐ水量は毎秒平均77万立方フィートで、
浮遊物の江口に沈殿しまたは海に流出する物質の総量は
毎年約64億立方フィートだというのである。

 これで江口のデルタは年と共に延長発達することが了解され、
海門県や崇明島や今の上海県のごとき陸地はすべて唐代以降の沖積地であるのも怪しむに足らぬ。

 揚子岬の如きは蘆葦迅速に生長して、出水の際に揚子江の泥を把持するからその生長も特に早く、岬頭の泥は当方へ約2海里半も干上がる。
この岬と崇明島との間が所謂南水道46マイルであるが、
その間に砂がたまりお化け洲(神灘)Fairy platとて
干潮低水にて深さ16フィート、普通満潮時に28フィートという驚くべき浅瀬が成し、
広袤36マイルに達する。
ゆえに通過船舶は1日2回の漲潮を利用する外なく、
このことは上海港の将来に対する脅威である。
しかし船から見下ろせば何処もおなじチョコレート色で、
浪花如茶とでもいうべくとても想像がつかぬ。

 江口の幅は70海里の広さだから河とは思えぬ。
遥か前方に一線青い草が見え崇明島かと思ったが、
船員は、崇明島はとても見えぬ、あれは家島だという。
これもなかなか大きな陸地である。
やがて東沙灯船を右にみる。いよいよ江口の浅瀬を通っているのだ。
ついでに南水道の中央水深4尋のところに碇泊している、九段灯船をみる。
この間4、50分もかかったであろう。




船呉淞に入る


~>゜)~<蛇足>~~
原文では「楊子江」になっていましたが、ここでは「揚子江」にしています。

~>゜)~<蛇足2>~~
マイル、フィート、海里、尋などなど...
ぴんと来ないので、後日、わかりやすいものに書き換える予定です。

西湖より包頭まで 1 上海へ -01 揚子江口  前編


 午後3時出帆、いよいよ上海を指す。
順次香焼島、鷹島、端島を眺めつつ西に向う。4時になり茶を啜る。
しばらくして船支那海に出で、水天茫々、ようやく動揺を覚え蒸せあつくなり気焔揚らず。
後で調べると、
この9日に大島の南東4、50㎞の海上に発達した台風が11日に沖縄島の北方に進んできたから
普通の進行ならば、我等の船は今夜その台風にぶっつかるのであったが、
不思議にもこの台風は北方に発達した高気圧におされて進路を西南にとって、
12、13、14と停滞し、くるりと回転して図の如くに進んだのであった。
こんなことはよほど珍しい現象で、
このために我国は近年まれな旱天つづきであったのであるが、
我等は幸いにこれだけのことで逃れたのであった。
我等の旅行の最初に稀有の気象を見たことを記念して記しておく。

 8月12日 朝台風は来なかって、強く荒れなんだが、船はかなりはげしくゆれる。
一行のT君は食堂に出てこない。
ここで西部標準時に入ったから一時間時計をおくらす。
長崎から揚子江口まで450カイリ西南西の直線航路でいつ甲板に出て見ても方向は変っていない。
正午近くになって左舷遥に模糊として舟山列島を見る。
このころから海面は満目黄濁し、揚子江口の近づいたのが知れた。





~>゜)~<蛇足>~~
台風に進路を左右されるのはあたりまえのこと。


~>゜)~<蛇足2>~~
原文では「楊子江」になっていましたが、ここでは「揚子江」にしています。
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