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Pengzi de 雑記帳
中国に関する雑記、備忘や以前すんでいた北京・蘇州の思いでなどなど
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西湖より包頭まで 1 上海へ -04 過去の上海 -01

 東洋第一の称ある上海、
1904年(日露戦争の年)の貿易額は3億2500万両人口45万余に過ぎなかったものが
1919年(欧州戦争和平克復の第一年)には一躍して5億2000万両に上り、
支那貿易総額の約六割を占め人口約200万の世界的大貿易港となるに至った。

 昔は滬涜という、滬は「列竹於海澨以捕漁者」であるから、
まず浜海の一漁村にすぎなかった所である。
それが今日になった歴史を尋ねてみると、
第一に揚子江口における沖積地の発達という事を述べねばならぬ。

 今の民国になって、江蘇省を五道に分ち
この浜海の区を滬海道という名にしたのもこの古語に基づくのであるが、
この道は上海、松江、南匯、青浦、奉賢、金山、
川沙、太倉、嘉定、宝山、崇明、海門の十二県を統括している。

 松江の西北に、石英粗面岩から成立せる鳳凰山、天馬山、佘(シャ)山等孤島状をなせる地塁を除いて、
全体一望平坦な揚子江の洪涵平野で太湖の水が縦横無数の溝渠となって貫流するところであるが、
滬海一帯、潮汐の来往によって、洪水の運ぶ土砂が直ちに淤積するために、沖積地の発達驚くべきものがあり、その結果太湖尾以東の沼沢地が段々と淤塞する。
そこで呉諺にも「海水一潮其泥一篛、日積累支港漸淤」という程で、
その結果三県三呉の水利事業は、歴代地方政治家のもっとも苦心する所である。

 そのいかに沖積が甚だしいかと云うことはこの十二県のなかで
海門、崇明、宝山、上海、川沙、奉賢、南匯、青浦の八県の地が、
少なくとも唐の時代には海面上に現出しなかったところであることによって証せられる。

 したがってこの江口におけるデルタの発達に伴い、
この地方の海運は古来幾多の変還をなし、かつては川幅も広くかつ深く大船の出入に自由であったところが、一、二世紀の後淤積の結果、繁栄を失うた歴史が多い、
たとえば、今の太倉という町は西暦三世紀、三国の呉が
ここに東倉を置きし故にその名を得たところであるが、当時は有力な海港であった、
しかしてその港は太湖から蘇州娄門に出て東流する娄江(劉家河)と称するものの河口にあたっていたのであるが
爾来千数百年をへて、太倉は20マイルも内陸に入り、娄江の舟運によってその繁栄を維持すとはいえ、また昔の海口でなくなった。

 やがて娄江の河口に於いて宋以後に劉家港と称する海港が出来て元明両代開運の起点になった。
乾隆年代の人陳起元が建議の中にも
 「劉河通塞所関不止在一州、河向寛二十余丈、元明開運道焉、
  高舸巨艘連檣上下、今未百年而河面之存者些五六丈」、
と述べた通り、元の海運及明の海道の起点となって揚子江口附近最大の都会のなったのであったが、
今日では川幅も縮まり、嘉興から13支里も奥になったので、
再び海港としての位置を恢復することが出来ない、
それでもなお劉家鎮という町は今日戸数600、人口4000を有してやはり民船が輻輳している。

 
第五図揚子江口


~>゜)~<蛇足>~~

目で見たほうがわかりやすいと思ったので、
手持ちの歴史地図集から揚子江デルタの部分を切り抜き、
並べてみましたので、資料: 長江河口の海岸線の変化をご覧ください。



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西湖より包頭まで 1 上海へ -04 過去の上海 
資料: 長江河口の海岸線の変化


★三皇五帝 伝説期


★夏


★商(日本でいうところの殷)


★西周(日本では周)


★春秋(西周)

 
☆三国


☆西晋(日本では晋)


☆唐


☆北宋


☆南宋


☆元


☆明


☆清




~>゜)~<蛇足>~~
カラーの部分はその時代の地図。
茶色の線は、現在の海岸線です。
時代名の前に★が付いているものは
郭沫若『中国史稿地図集』中国地図出版社から
時代名の前に☆が付いているものは
『中国歴史地図集(全8巻)』中国地図出版社から


~>゜)~<蛇足2>~~
王朝名が日本で習うものと違っているものもあります。
詳しくはこちらをご覧ください。
→ メインサイト → 王朝と年代
西湖より包頭まで 1 上海へ -03 上海の通貨 後編

 かように銀両の基礎たる平に於て、不統一になれた人民は、
普通流行の雑多の通貨に対しても申水(打歩)をつけて取引することになれているので、
複雑な感情を苦も無くやってのける。
両銀には普通大なるもの50両内外の馬蹄銀と、10両内外の鐘状をなせる銀錠とがあって、いちいち重量と純分とを検定して授受し、公佔局の刻印が入っている。
我々観光客はこんな貨幣を見ないで、大洋と称する元銀を持たされる。

 大洋には湖南、湖北、浙江、広東等の造幣局鋳造の龍洋とて龍を刻した通宝
すなわち大清銀幣および民国三年新に鋳造を始めた袁世凱の肖像を印せる元銀及墨銀香港銀などがある。
もとは墨銀を鷹洋と言い信用甚だ厚く、一般物価の基礎貨幣となり、
他の1圓銀貨は打歩をつけたものであるが、事実墨銀には偽造贋造変造の喪のが多くて、授受の際いちいちその銀色音響を検査する必要があって煩わしいものである。
然るに1913年以後上海市場の墨銀在高は増加し1,000万ドルを下らず、
且地方農家が墨銀と大洋を平価にて授受するに至って、墨銀の相場は幾分低落した。

 大洋の中では袁世凱の大洋が第一で、これさえ持っておれば、支那は尤も安心である。次に小洋銭は2角(20セント)1角(10セント)の2種があるが、
その品位は大洋の891.47に対して、小洋は820位だから、
その2角5個又は1角10個で1元に相当しない、
普通小洋11枚半で1元検討であるけれども、それは大体のことであって市場在高の多少によって日比野相場が一定しない不便がある。

 銅貨は1900年以来鋳造のもので我2銭銅貨大のものと1銭銅貨大のものとの二種がある。
銅幣児(トンペイ)というて1銭銅の方(当制10文)が尤も広く行われる。
これは車夫に支払ったり、一寸した買い物をするのに尤も必要なものであるが、
これを銅貨と交換する小商人は市中至る所に居る。
さらに制銭とて穴あきの1文銭があるが、これは上海では苦力などの用うるもので我々は手にする機会がない。

 この外横浜正金銀行とか台湾銀行の如き外国銀行の発行する兌換銀券があり
又中国銀行、交通銀行などから発行している兌換券があって、
いづれも1元2元5元10元50元100元500元の7種の外2角1角の紙幣を出している。
しかしてこの券面には、上海とか、南京とか、漢口とかその通用市の名前が入っていて、これを他の市に持ってゆくと割引される恐がある。
であるから上海付近に居る間にはそこで費やしうるほどの金だけを寮買いしておいて、決してその紙幣を南京や漢口へ持ってゆかぬことである。
で漢口では又漢口の紙幣を、そこで費す丈両替して使用するのであるが、然らずんば袁世凱の大洋を携行するに限る。

 しかし夏の旅に大洋の百弗ももって行けばとても重くて歩けない、
おまけに銅貨の1ドル分200枚も持たされてはたまったものではない、
かつまたその支払いの面倒な計算に至っては、とても幣制画一で十進法に慣れた日本人には理解が出来ぬ、これを支那人ならば三才の児童猶よく之を弁ずる。
或人曰く「どうも支那人のほうが頭がよさそうだ」と 
で今度の旅行では、この小銭の出入の如きは大抵通訳に任せておいて、敢て之に関係せないことにきめた。
但し画する場合通訳にして支払いの上前をはねないのはないが、この事も大目に見ておくことにしたのである。



~>゜)~<蛇足>~~
タイピングしておおよそを理解することに徹したため、
これをご紹介してよいの顔も思いましたが、ま、それはそれ....
貨幣の写真などは紹介したいです。
西湖より包頭まで 1 上海へ -03 上海の通貨 前編


 この日、文路日本堂にて地図絵葉書を求めた際、
1圓90銭だというから大洋2ドルを払った処、1ドル7角にてよろしいという、
小洋12枚で大洋1ドルに当たるからである。
さてその小洋1角は銅子14枚に相当するというから計算が中々面倒である。
けだし上海に来た日本人は恐らくまずこの貨幣の不統一なのに面食らわされるであろう。

 聞いてみると、現今上海に於いて使用せらるる通貨には
両銀、墨銀、元銀、小銀貨、銅貨、制銭、兌換券及び手形類がある。
それがいづれも比価がややこしい。

 普通の大取引には両を単位にするが、両と云うものは名目上の貨幣で、実際かかる単位を有する貨幣はない。
即ち両とは銀の重量、成分及其他の商協定との三要素より成立する流通価格で、
貨幣単位というよりもむしろ秤量の単位とでもいうべきであるが、
しかも支那で貨幣を秤量するに用うる平(衡器)はすこぶる多く、
古来中央及地方の官府見な同一の平を用いないで、
収入には大を用い、支出には小を用い、
地方官府は中央へ送銀の際に用うる平より更に大なるものを以て民に臨むとい工合で、その乱脈驚くべきがある。
しかし1858年以後海関両を統一して関平1両581.47グレーンと定まった。
しかしこの定まった一両に対する成貨がないから、
その地方の通用銀と海関両との比価を定めて、関税を徴収している、
関平の外に政府の庫平民間に用うる曹平市平などいうものは、
各地各様にして取引は極めて複雑であるが、
そこは支那人だから、何れも或一種の標準平に対し、一定の比を以て生産しつつあるのである。


~>゜)~<蛇足>~~
貨幣制度はとても苦手な分野です。
いつも遠回りして触れないようにしていました(^^ゞ

この時代、かなり複雑になっています。
使用されている通貨も上述に「墨銀」と入っていますが、
これはメキシコ銀貨のこと。
解説を始めると、いつまでたっても『西湖から包頭まで』の「西湖」=杭州にたどり着かないので、また何かの機会に....
西湖より包頭まで 1 上海へ -02 上海 後編

 今日は水曜日とて公家花園(パブリックガーデン)には9時から音楽隊が出演するとの事、
所謂在留外人専用の公園で、蘇州河の黄埔に合する第五港区の西涯を占め
上海繁華街位する所だ、
晩餐をすますと直ぐに行って見る、
秋天の明月、江上にさえて一点の苦も無く、
地上は芝の中に聳えたるニセアカシア又はプラタナスの繁みのなかに、
椅子又はソファーによりかかれる西洋人、
殊に目立つのは洋装美人の綺羅を飾れるが男女手を組み合わせて行き交うありさまで、
中には態と画舫を江に浮かべて音楽に耳を傾くるあり、
庭内のカフェーも亦満庭の来客で盛んなことだ。
我等一行も亦亭に入ってサイダーを飲み冷茶をとる。
このときアイスチーと註文して通ぜず、コールドチーと言い直す、相顧みて苦笑。
空に月、地に音楽、黄埔は昼間の黄濁とさまかわりて水色燦然、一幅の油絵のようだ、
この地に住める西洋人の羽振りのよいのに驚いて、日本人を捜すと、
遠慮気味に木陰にきているものがあるが、和服で風采ひきたたず。

 10時帰宿浴後手紙などを書いていると近所から聞こゆる太鼓のひびき、
雑音に混じりて安来節声高らかに伝わる。
ここは文路とて日本人の居住地に近い処からの響きであるが、
公園の音楽をきいた耳で、異郷明月に対し、鄭声をきくあまりよい気持ちでない、
趣味の教養に関して日本人は外人よりも遥かに劣っていることを痛感せざるを得ない。


~>゜)~<蛇足>~~
パブリックガーデン: 現在の黄埔公園。
蘇州河: 呉淞江のことで、上海で黄浦江に合流。
黄埔:  原文では「黄浦」。黄埔が正と思われるので訂正。
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