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Pengzi de 雑記帳
中国に関する雑記、備忘や現在住んでいる蘇州の様子などなど
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重陽は九月九日のことです。
九は『易経』の中で陰陽の陽の数になっているので
九が重なる日なので、重陽といいます。

この節句の別名は
登高節、晒秋節、敬老節などといいます。

その由来は
・登高節
 岡や高い建物に登る習慣があります。
 秋の行楽という感じでしょうか。

・晒秋節
 晒秋し収穫した農作物を日乾にすることを指し、
 収穫祭のような意味合いがあります。

・敬老節
 重九=重久に通じ、生命長命、健康長寿を意味することから
 敬老の日ともされてきたそうです。


この日を詠んだ唐詩宋詩(日本でいうところの漢詩)は多々ありますが、
高いところに登ってお酒を飲んでいる場面がほとんどです。
この日のお酒は菊花酒でしょうか...

「九月九日憶山東兄弟」王維


独在異郷為異客 毎逢佳節倍思親
遥知兄弟登高処 遍挿茱萸少一人

独り異郷に在りて異客と為る
佳節に逢う毎に倍親を思う
遥かに知る兄弟高きに登る処
遍く茱萸を挿して一人を少くを
 

重陽の画像「重阳赏菊、饮酒、对弈」は百度百科から
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西湖より包頭まで 6  包頭行 -05 墩台の連互

 八達嶺から元来た道を下るのは早い、馬よりも歩く方が楽だ。
30分で青龍橋駅に達する。

 汽車にここでV字に往っ戻って八達嶺隧道道の方へ登るのである。
駅の一方に詹天祐の銅像と大總統の頌給の碑がある。
侯車室で卵子やサイダーを取る。
やがて午後2時16分発の汽車にて北に向う。
隧道は長35080尺もっとも長い。
出た所が嶺外の岔道城の要塞である。
見上ぐればこの山にもあの山にも、古代城壁のルーインらしいものがある。
まだ城壁らしい形をしたものの中に民人の居住せるものが居り
あるいは磚瓦、あるいは土壘のようなものが幾筋となく目につく。
いずれが古いかわからない。
   
 康莊までくると一望の沖積平野である。
窓から南西の山巓を見ると、長蛇のごとき城壁が二筋走つている。
平野は永定河の支流で予想外に広漠たるものだ。
見渡すかぎり高粱のよくできた畑地である。
やがて水の清んだ大きい河を通る。
中々大きいが、でも支流の支流である。
懷来はこの支流々域の中心である。
南方永定本流の方を見ると緑樹蒼々として鶏犬の声互に聞ゆといふ風である。
站頭に林檎を売る漢人の声はなはだ喧しい。
粗末な葛籠に林檎を入れて積出している。
仲仕の数も2、30人は見うけられて中々盛んである。
さてここからさきにゆくと沖積層はいつか黄土層にかわって、
所々に小さい砂川があり、黄土を浸蝕して断崖を作くれるが多い。
黄土の表面は粟、高粱、唐辛など豊作である。
土木駅につく、站南4里にしてかの有名な土木城がある。
正統十四年にエセン入冦、英宗親征して大同に至り、師を班し、
ここでエセンに追擊され、大敗遂に捕虜の憂目あったところだが、
今日ではこの平野はすべて漢人の部落で、たしかに稲田だと思はれるものまである。
豆といい粟といい農業おおいに開けている。
30支里を西して新保安にくると一面の水田に稲が黄熟している。

 ふと平地の上を高10メートル内外方5間がほどの土の塔がある。
これはと気を付けると長城以北の山や野のぽつりぽつりとある。
新保安以後はその数いよいよ多く、1支里ごとに作くられ、
山の尾にあれば麓にもあり、小高い岡にあれば低い畑にもある、
これが烽火台たと気がつく、数の多いのに驚く、
ところがこれかどこまでつづくかというと、ほとんどこの汽車道の行くさきざきにあって、
張家口から大同、豐鎭をへて紅砂壩駅までおよそ400キロメートルの沿線に連亘しているのだ。
長城には36丈毎に方形の墩台があるが、この烽台もまた同じ日的で、敵人の来冦を報じかつ防御するところのものである。
 
 さきにのべた漢代に、
「匈奴が句注に入るや烽火甘泉に通じ、数ならずして漢兵至る」とあるのも、
かかる通報機関のあった事を語るもので、
『唐六典』には「舊關内河東河北皆置烽」とあり、「烽と烽と相去る三十里」とあり。杜甫の詩にも「候火雲峯峻、懸軍幕井乾」というがある。
楊烱は「烽火照西京、心中自不平」と歌っている。
しかし今目前にある烽台はさほど古いものでなくて、
多くは明の成化・嘉靖時代のものであるらしい。

 余子俊の議によれば「毎一里築立墩台一座、毎座四面根脚各闊三丈高三丈」とあって
上方に6尺の部屋があり、下に1丈からの深い濠をめぐらしてあった。
工人500、土近ければ10日にして1座を作り得るから、
1万人が1ヶ月かかると60座はできる。
「1座10人ずつの守備兵を置き、兵糧は常に1ヶ月の水と米とを貯えろ」とある。
で今見るやうな数の多い墩台ができたのである。
古へは日中には烟を出し、夜中は火を点じてその火の数で賊の多少を報じたのである。
しかし明代には烽火の外に長竿を立て、これに紅燈を吊るしたらしい。
その紅燈の製法まで『山西通志』にのっている。
普通長城の巨工なるを唱うるが城外更にこの墩台の連互を考うるとき、
漢人のいかに苦心したかがわかる。
おだやかに張子容の詩を吟じて、当時の労苦をねぎらわとするもの、あに予一人のみならんや。
平沙落日大荒西 隴上明星高復低 孤山幾處石烽火 戰士連候皷聲
と。


~>゜)~<蛇足>~~
 わかりやすくするため、原文の以下を変えました。
  也先: エセン

西湖より包頭まで 6  包頭行 -04 万里長城 後編


 魏の太武帝の長城とか北齊の文宣帝の長域等いずれもこの性質の長城であって、
この八達嶺のは北斉の天保六年にできたもので、
史に「民百八十万を発して長城を築き、北夏口より恒山まで九百余里に及ぶ」とある。
周宣立帝もまた雁門から碣石(山海関)まで長城を修繕する、
隋煬帝も同様に築城ををしたので、
唐代にはおよそ現在の山西直隷両省の北境にある長城が大略はできていたらしい。



 その後明代になって元人を北に追うたけれども、
全くこれを討平したのではないから、歴代韃靼の入冦にくるしみ、
ことに正統年間英宗土木の大敗以後長城を守ることもっとも重く、
成化九年には余子俊が新たに河套の南に黄甫川から定辺に至る千七百余里の辺牆をつくり、
甘粛の嘉峪関から東山海関まで首尾一貫した万里城ができ上ったのである、
これすなわち今日の長城で明代には遼東、薊州、宣府、大同、山西、延綏、寧夏、固原、甘粛の九辺に各大将を置き屯兵を配し
中にも山海関、古北口、居庸、紫荊、雁門、偏頭に至る第一線を内辺として
堅濠塹壘今見るがごとき雄大な域壁とし、
さらに宣府大同二鎮の外に長城外辺を築き烽墩の制を立てて蟻の通る隙問もないことにしたのであった。



 嘉靖二十年暗達すなわち蒙古人の大に冦するや、翟鵬の議にしたがって、
壕を浚え垣を築き辺牆を修むること390余里、新墩を增すこと292、護墩堡14、建舍1500、軍を募ること1500人一人づつに50畒<モウ>を給して屯守せしめた
というような事例が『山西通志』や『明史』に無数にある。
余子俊の辺牆1770支里の如きも、軍を役する4万人とあつて明代は非常に巨費を投たものであつた。

 清朝になって喇嘛教を重んじて蒙古人の性情を柔げ、
一面蒙古王公と皇室の結婚政策によってその武断的思想を抑制し、
一面書籍の刊行を禁じて智識の開発を妨げてから、
当年の意気全く沮喪して臆病卑屈の民に化し、長城はついに無用の長物と化するに至った。のみならず今は鉄道の便によつて漢人の塞外に出づる者多く、
主客全く地を転ずることになったのである。
しかし将来果して現状を維持するや否やは神ならぬ身の知るよしもない。
民族の興亡と時代の変遷を追懷すれば遊子斷膓の感更にらに新たなるものがある。

西湖より包頭まで 6  包頭行 -04 万里長城 前編




 普通内門を通って外門に進み、外門の横から、高3丈の長城に登り、
それより城壁の上の広さ15尺ないし20尺もある磚瓦の甬道を尾道伝いに西方の台に上る。
墩台は36丈毎に一つあって方形である、
第一の墩台には古銭やら数珠などを売っている乞食風のものがおったが、
第二の墩台の上には今朝北京を発して汽車でやってきた多くの外人、華人などが、盛んに食事を取っている。日本の大学生も見受けた。
いかさま見晴らしがよい。
南は山岳重疊の居庸関一帯をへて望京の情が起り、
北は山西北部の台地を越えて胡軍を呼ばう概がある。
形勢まさに天険である。
脚下を見ると石と磚とを漆喰で固めてある。
黄土と石灰と墨との三つを混じた三合土なるものを用いたというが
非常に堅牢にできて峰から峯へ延亘している偉観に、万里長城の名のふさわしきを思う。
ところどころに甬道から下りられる暗道がつけてある。
雉堞石のところどころ破れたるが惜しい気がする。

 何にしてもかかる雄大なものが西は臨洮から東遼東に至る万余里に延亘したと思うと感慨無慮で、遠古の時代を回顧して默々たる思に沈むのも人情であろう。
しかし我等が今佇立して朔北の荒野に対しているこの城壁は決して一朝一夕にできたものでない。
上下三千年の間、漢民族の対外闘争の結果として、幾多英雄の心血を灑がしめたもの。
秦始皇がつくつたと簡単簡単な記述でかたづけてはすまないものである。
 そもそも支那に長域のあるは必しも北に限らない。
今でも村落、県鎮すべて土垣または城壁をめぐらすように、洛陽あたりでは単に自己の田畑にさへ壘を繞らしている。
かような境界の観念は、紀元前4世紀戦国の世において著るしく列強の間に起り、
山東には斉斉魯の長城が泰山の左右に連り、河南に韓の長城ができ、
その南に楚の長城があるという風に、中原の間にあったが、
そのもっとも盛んに築かれたのは、何といつても北方の夷狄騎射に堪能なものを防がねばならぬ方面であつた。
すなわち直隷山西陜西の各省に国する所の燕、趙、魏、秦の四国はよほど早くからその工を起した。

 それは西紀81年にローマ帝ドミティアヌスが、ライン、ダニューブ両岸河の間に長城<リメス>を築いて、北狄を限ったよりも、およそ500年も前の事で、
最初に、魏恵の恵王長城を固陽に築き、
ついで西暦前314年秦は義渠の戎を破って北地長城をつくり、
趙の武靈王は前307年林胡楼煩を破って代より陰山にかけて長城をつくり、
燕もまた東胡を破って造陽より襄平に至る長城を築いた。
いずれも夷狄を退けて漢民族の植民地を作くり、その当然の結果としての境界を守るためのものであるから、長城は前進的であり移動的であつた。
ゆえに秦が天下を一統するや、これら四国の跡をうけつぎ紀元前215年蒙恬をして北の方胡を討ちことごとく河南の地をとって直道を通じ、九原より雲陽に至る間、いわゆる東洋のローマンロードをつけ、長城は西臨洮より。東遼東まで万余里に達せしめた。

 『匈奴伝伝』によるとこの時は「河によつて塞をつくったが、やがてまた河を渡り陽山北假中による」とあつて、
黄河の北の今の陰山々脈を越えて長城を広げたのであるから、実に前進的積極的である。
したがって漢民の力全く胡族を圧倒したので今日見るような堅固な城壁でなく、あるいは土壘、または石壘で比較的簡単な性質のものであったと見られるが、
その後漢民が到底北方の強勇に敵し得られぬやうになって、はじめて長城が消極的な防御機関となるに至り、山岳の険要によるところの蜿蜒としてつづく長城というものに進化した。
それは漢高祖が大同附近で匈奴の冒頓単干に囲まれた頃からの傾向である。
当時雁門の嶮によってこれを防御するにいたったのを、『史記匈奴伝』に
於是漢使三将軍軍屯北地、代屯句注、趙屯飛狐口、緣辺亦各堅守以備胡寇。又置三将軍、軍長安西細柳、渭北棘門、霸上以備胡。胡騎入代句注辺、烽火通於甘泉、長安。
と記している。
この句注というは今の雁門関で飛狐口は恒山の北、いずれも内辺長城の要塞であるが、
屯兵が常にここを堅守し、胡人来るや烽火をもって長安に通知するという風の組織を完成したのである。
その後衛青のごとき武将が出ると、再び塞外に武威を揮うたけれども
爾来この受け身の防御壁としての性質が定まって、
五胡十六国の時代に胡人が北支那に侵入して王都を置く頃になっても、
やはりこの長城を重要なものとして、さらに後方に備える事になった。



~>゜)~<蛇足>~~

 わかりやすくするため、原文の以下を変えました。
  羅馬帝ドミチヤヌス: ローマ帝ドミティアヌス


西湖より包頭まで 6  包頭行 -03 居庸関

 9月3日朝5時魁氏に起こされる。
ここから居庸の四重の関を驢馬にて突破するのだから、ちと早起きを余儀なくされたのだ。
旅館を出て鉄道線路を西に横断し、南口河の河原の上をゆく、
暁風楚々気持ちがよい。

 『水経註』に
「其水南流歴故関下、渓之東岸有石室三層、其戸牖扇悉石也。蓋故関之候台矣。南即絶谷、累石為関垣、崇墉峻壁、非軽功可挙。山岫層深、側道褊狭。」
とあるから、
西暦5世紀すでにここに山から山へかけて塁壁のあったのはたしかである。

 この文中に古関と称するほどであるから、けだしよほど古い時代からのもので、
秦始皇がつくらしめた『呂氏春秋』にも、天下の九塞を挙げて居庸を記しており、
『淮南子』の「九塞」にも出ているから、この北方に通ずる関署はあるいは燕代にすでに設けられたにちがいない。

 明代京師防備の第一線として古北口、居庸、紫荊の三つを特に重要視したのであるが、
元の大軍の勇猛をもってしても、金人のここを守るとき抜くことはあたわず、
嘉定二年には紫荊関から涿易二州に下り、それからこの南口に攻めて来たといい、
あるいはこの関所の東の松林の中の間道、わずかに一人しか通れないところを、元の太祖が通って南口に出て攻め上ったという伝説があり、
まことに天下の要塞燕王のいわゆる北平の噤喉であるから、永楽以後常に衛を置いたところである。

 さてこの関所にはこの南口と八達嶺にある長城の関門すなわち北口とがあって、その南北二口の間に居庸関と上関があるから、合わせて居庸四関という。換言すれば長城の内側に三重の関所をつくり、各山から山へ取り巻いた定石をもっているのである。
 南口の河原からこの左の山手の塁壁と、右の山手の墩台との間を進んでまず最初の城壁関門に達する。
この門を入ると古の南口市街で街並みの揃った20戸ほどの民家がある。
道路はすべて石畳であったのが、今はあれている。
『明史』の記すところにしたがえば、「南口城は洪武二年大将軍徐達の築くところ」とあるから『水経註』の作者の見た石塁ではないのであろう。

 南口からさらに5支里をすすむと再び前面の山から山、谷から谷へ城壁が委蛇たるを見る。
これすなわち有名な居庸関で入口に穹門が二つ、一を通って右に曲がって第二門に入るとこれに「居庸関」と題してある。
穹門破れて危険だから、新道が外側を迂回してつけてある。
この門から行くこと1町にして道の中ほどに高3丈1尺の白大理石の穹門、道幅2丈4尺がある。
 これは雲台または過街塔と称せらるるもので、元武宗が太后の寿福を祝して建てた塔で、
洞壁に釈迦像、金剛像などをはじめ、仏画やら漢、梵、蒙、回紇、女真の五体で呪文が刻してある。
洞道の両口にインドのガルタ像がほってある、彫刻の精巧真に驚くべきものがあるが、頂上の塔は今は烏有に帰し、道下の白大理石の敷石には風雨千年車軌の通った幅三寸深さ三寸ほどの轍跡がついていて、そぞろに懐古の情を呼ぶものがある。

 茶店にてしばし休息してさらに進めば、街を離るるところにまた二つの穹門があって、また外方に「居庸関」と題してある。
この関をさると先カンブリア時代の片岩に代わるに花崗岩の噴出地となるから、
風蝕の結果両岸は秀峰壘起してまことに風景の妙を極める。
道路は荒れに荒れてまるで渓流である。
8支里を行くと第三の関門がある。
これを上関というが、その外方に「居庸外関」と記してある。
上関からさきは途いよいよ急に、渓谷ますます蹙まる。
谷に添うた旧道まったく破れて弾琴峡の方へ行けない。
しかたなくここで左方の山道を越える。
峠の下に五貴山隧道があるのだ。
この峠を越えて溪畔に出ると路傍に大きな岩がある。
これに二大字を題して「仙枕」とある。一大花崗岩である。
呂賁の隷書で非常に立派な字であるが、なおこの石には大行散人の詩、陽和の凱旋記などがほってある。
よく見るとこのあたりの路傍の花崗岩の少なく大なるものや断崖のところどころに種々の文書が刻してある。
いずれも能筆である。

 石くれだった峡道をすすむと途中で奥地から馬群数10匹を率いた一隊に出会うこと2度、牛群にあうこと1度、いずれも手綱をかけていない。
2名ほどの牧夫の命に従って歩んでくる有様まことに温順なものだ。
馬を追うにはオウ、オウといい、牛にはチョツ、チョツと掛声している。
日本では馬にはドウ、ドウ、牛にはチョイ、チョイという。
なんだか似ているのも可笑しい。
やがて上関から17支里青龍橋村に達する。
これは北口の宿駅で、嶮崖によって作られた一山村であるが、
駅は右方の山腹に設けられている。
比較的豊かな住宅の2、3を見受けた。
 この村からいよいよ八達嶺へ登るには、花崗岩の山道をおよそ3支里すすむのであるが、磊塊たる嶮坂である。
驢馬なればこそよくも登るものだと思う。
荒れた道を何度となく切りひらいたのであるからその切り下げた崖段が三つまでものこっている。すべり落ちたら大変だ。
ようやくにして八達嶺の関門に達する。
ここにも内外二重の門があって外門に「北門鎖鑰」の四大字がある。
まことにこれぞ華夷を限るの天嶮で有名な万里頂上に達したのである。



~>゜)~<蛇足>~~
 わかりやすくするため、原文中以下を変えました。
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