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Pengzi de 雑記帳
中国に関する雑記、備忘や現在住んでいる蘇州の様子などなど
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西湖より包頭まで 7  北京滞在 -02 京師図書館

 

9月12日、前日来の疲労にて昨夜はよく寢れた。
今日は松浦君が図書館に案内してくれる日である。
まず正金銀行に行って両替をする。相場100円につき73元である。
戦雲動いて銀価騰貴の勢にあるのだ。
人力車にのつて北京市街の北部方家胡同にゆく。
この附近は満州人の住宅地で家宅の形式古びたれども
一種の特色があって南の方とは樣子がちがう。
半ば朽たる牌楼の豪奢語る状のなかなかに憐である。

図書館に入ると陳君が出られて極めて懇切に案内してくれられる。
『四庫金書』はもと文淵、文溯、文源、文滙、文宗、文瀾、文津の七閣にあつたのであるが、
この中杭川の文瀾閣は過半焼失したので今この図書館で100人程の写字生が筆写補修中であり、
楊州大観堂の文滙、鎭江金山寺の文宗の二つはいずれも江楊の亂に失われ、
圓明園内にあった文源閣は仏軍に焼かれて、
のこる所避暑山莊のの文津と清室にある文淵と奉天の文溯の三つであるが、
図書館のはその文津閣本で、各巻に「避暑山莊」、「文津閣寶」、「太上皇帝之寶」と大きな三の方印が押してある。
けだし天下の至宝、もと古物陳列所あつたのを民国四年10月から本館に預かっている。
四庫6144函36275冊、
四部各一色に分ち緑は経、紅は史、藍は子、灰は集部で
本の大さは各部同大、紙質尤も美はしい、
毎半ページ8行21字、極めて美はしく書いてある。
経部20架、史部33架、子部22架、集部28架、共計103架、
凾も丈夫であれば棚も強い、
一室内に整然として排置されてある有様、まことに厳肅な感に打たれる。
我等の如く平素史部でも二十四史の石印本をさえ容易に手に入れかねるものは、
ただ茫然としてこの架凾を見るに止まる。

やがて本館珍蔵本室に入って宋版の資治通鑑寰宇通志の類を見せて貰う。
輿図の類は無いかと聞くと、博物館に移したとの答である。
やがてここを辞し荷塘湖畔の会賢堂に至って中食をとる。
立派な料理屋で松浦君が奢ってくれた。
それから午門内の博物館に行く、係官がいないので人れない。
遺憾ながら帰る。
午後四時琉璃廠に行く。
新式の市街で外城内第一の繁華な所である。
多くの書店の中で来薰閣書荘というちっぽけな本屋が、
我等に掛値をいわないので安心して2、3購求してかえる。

本日京大文学部出身の加地哲定氏の来訪をうける。
氏は高野山からの留学生であるが、
この頃支那に密敎研究の居士が多いので、
加地君の敎をうくるものが大官の中にもあるとの事で、
よほど余裕のある生活をしていられるらしい。
いろいろ歓談。
明日は中秋節で、つぎは日曜にあたる。
博物館はそのさきでないと行いないが、僕からも係の人に頼んでやろうといわれる。


~>゜)~<蛇足>~~
 京師図書館は、今でいうところの北京図書館です。

~>゜)~<蛇足2>~~
 1924年の中秋の節句は9月13日でした。

~>゜)~<蛇足3>~~
 文中の京師図書館の写真は、百度百科の京师图书馆から







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西湖より包頭まで 7  北京滞在 -01 中央公園

まず国際観光局に立ち寄って直隷山東視察の意向をのべて、汽車利用の方法を相談する。
日程をこさえてやろうといわれる。
辞して崇文飯店に入って中食をとる。
やがて崇文門上に登って城壁のから北京の大観をする。
森の都、瓦の都、なつかしい眺望である。

帰宿して順天時報社に行って松浦君を訪ねる。
元気で仕事をやっている。英国の西藏に於ける活動を研究しているとの事。
相共に車で中央公園に走る。
入園料十毛をとつて一般の苦力を制限して入れない。
從ってこの公園は京師縉紳の出入に限られ、老柏のしげった幽邃の趣が保有されている。

熱閙の市街の中にしてこの勝地があるのがうれしい。
木蔭の籐椅子に腰をかけ悠々茶を喫し、西瓜豆をかじる紳士の多いのを見る。

支那では公園というものは極めて静的なもので決して動的でない。
中央公園特にしかりで、午後5時以後は多くの北京の令嬢達がここにやってきて凉を納れるので、賑かでもあり美はしくもある。
社稷壇から通俗図書館を一巡し、懐来飯店の中庭に来てサイダーをとる。
子女の怜悧で、肌のきめの細いことなど談じていると、
白毫赤帽赤衣の軍楽隊が、列をなして奏楽してくる。
これはと見ると燦爛たる花馬車がこの店先につく。
花嫁が乗っているのだ。
見れば懐来楼上縉紳の集るすでに多い。二十歳前後の淑女も多くきている。
けだし花嫁の披露をやるのだ。
薄いベールをかけて盛装した美人が、馬車から出て楼に入ると、
あらゆる人間の視線は、王を迎うるか如くに輝いてくる。
遠来の孤客には大なる眼福とでもいうべきであろう。
松浦君は「およそかくのごときは近世支那新人の洋化せらる風習で、前代未聞のことだ」という。
よく見ると洋装の夫婦連れで、子供をつれて来ている若人が多い。
これも民国近来の現象であるとの事だ。
忠厚伝家を理想とした昔のつつましやかな時代は過ぎ去ったのかもしれぬ。


~>゜)~<蛇足>~~
 中央公園は、今の中山公園、
 かつての社稷壇(土地の神(社)と五穀の神(稷)を祀る場所)です。

~>゜)~<蛇足2>~~
 文中の古柏の写真は、百度百科の中山公園から




重陽は九月九日のことです。
九は『易経』の中で陰陽の陽の数になっているので
九が重なる日なので、重陽といいます。

この節句の別名は
登高節、晒秋節、敬老節などといいます。

その由来は
・登高節
 岡や高い建物に登る習慣があります。
 秋の行楽という感じでしょうか。

・晒秋節
 晒秋し収穫した農作物を日乾にすることを指し、
 収穫祭のような意味合いがあります。

・敬老節
 重九=重久に通じ、生命長命、健康長寿を意味することから
 敬老の日ともされてきたそうです。


この日を詠んだ唐詩宋詩(日本でいうところの漢詩)は多々ありますが、
高いところに登ってお酒を飲んでいる場面がほとんどです。
この日のお酒は菊花酒でしょうか...

「九月九日憶山東兄弟」王維


独在異郷為異客 毎逢佳節倍思親
遥知兄弟登高処 遍挿茱萸少一人

独り異郷に在りて異客と為る
佳節に逢う毎に倍親を思う
遥かに知る兄弟高きに登る処
遍く茱萸を挿して一人を少くを
 

重陽の画像「重阳赏菊、饮酒、对弈」は百度百科から

西湖より包頭まで 6  包頭行 -05 墩台の連互

 八達嶺から元来た道を下るのは早い、馬よりも歩く方が楽だ。
30分で青龍橋駅に達する。

 汽車にここでV字に往っ戻って八達嶺隧道道の方へ登るのである。
駅の一方に詹天祐の銅像と大總統の頌給の碑がある。
侯車室で卵子やサイダーを取る。
やがて午後2時16分発の汽車にて北に向う。
隧道は長35080尺もっとも長い。
出た所が嶺外の岔道城の要塞である。
見上ぐればこの山にもあの山にも、古代城壁のルーインらしいものがある。
まだ城壁らしい形をしたものの中に民人の居住せるものが居り
あるいは磚瓦、あるいは土壘のようなものが幾筋となく目につく。
いずれが古いかわからない。
   
 康莊までくると一望の沖積平野である。
窓から南西の山巓を見ると、長蛇のごとき城壁が二筋走つている。
平野は永定河の支流で予想外に広漠たるものだ。
見渡すかぎり高粱のよくできた畑地である。
やがて水の清んだ大きい河を通る。
中々大きいが、でも支流の支流である。
懷来はこの支流々域の中心である。
南方永定本流の方を見ると緑樹蒼々として鶏犬の声互に聞ゆといふ風である。
站頭に林檎を売る漢人の声はなはだ喧しい。
粗末な葛籠に林檎を入れて積出している。
仲仕の数も2、30人は見うけられて中々盛んである。
さてここからさきにゆくと沖積層はいつか黄土層にかわって、
所々に小さい砂川があり、黄土を浸蝕して断崖を作くれるが多い。
黄土の表面は粟、高粱、唐辛など豊作である。
土木駅につく、站南4里にしてかの有名な土木城がある。
正統十四年にエセン入冦、英宗親征して大同に至り、師を班し、
ここでエセンに追擊され、大敗遂に捕虜の憂目あったところだが、
今日ではこの平野はすべて漢人の部落で、たしかに稲田だと思はれるものまである。
豆といい粟といい農業おおいに開けている。
30支里を西して新保安にくると一面の水田に稲が黄熟している。

 ふと平地の上を高10メートル内外方5間がほどの土の塔がある。
これはと気を付けると長城以北の山や野のぽつりぽつりとある。
新保安以後はその数いよいよ多く、1支里ごとに作くられ、
山の尾にあれば麓にもあり、小高い岡にあれば低い畑にもある、
これが烽火台たと気がつく、数の多いのに驚く、
ところがこれかどこまでつづくかというと、ほとんどこの汽車道の行くさきざきにあって、
張家口から大同、豐鎭をへて紅砂壩駅までおよそ400キロメートルの沿線に連亘しているのだ。
長城には36丈毎に方形の墩台があるが、この烽台もまた同じ日的で、敵人の来冦を報じかつ防御するところのものである。
 
 さきにのべた漢代に、
「匈奴が句注に入るや烽火甘泉に通じ、数ならずして漢兵至る」とあるのも、
かかる通報機関のあった事を語るもので、
『唐六典』には「舊關内河東河北皆置烽」とあり、「烽と烽と相去る三十里」とあり。杜甫の詩にも「候火雲峯峻、懸軍幕井乾」というがある。
楊烱は「烽火照西京、心中自不平」と歌っている。
しかし今目前にある烽台はさほど古いものでなくて、
多くは明の成化・嘉靖時代のものであるらしい。

 余子俊の議によれば「毎一里築立墩台一座、毎座四面根脚各闊三丈高三丈」とあって
上方に6尺の部屋があり、下に1丈からの深い濠をめぐらしてあった。
工人500、土近ければ10日にして1座を作り得るから、
1万人が1ヶ月かかると60座はできる。
「1座10人ずつの守備兵を置き、兵糧は常に1ヶ月の水と米とを貯えろ」とある。
で今見るやうな数の多い墩台ができたのである。
古へは日中には烟を出し、夜中は火を点じてその火の数で賊の多少を報じたのである。
しかし明代には烽火の外に長竿を立て、これに紅燈を吊るしたらしい。
その紅燈の製法まで『山西通志』にのっている。
普通長城の巨工なるを唱うるが城外更にこの墩台の連互を考うるとき、
漢人のいかに苦心したかがわかる。
おだやかに張子容の詩を吟じて、当時の労苦をねぎらわとするもの、あに予一人のみならんや。
平沙落日大荒西 隴上明星高復低 孤山幾處石烽火 戰士連候皷聲
と。


~>゜)~<蛇足>~~
 わかりやすくするため、原文の以下を変えました。
  也先: エセン

西湖より包頭まで 6  包頭行 -04 万里長城 後編


 魏の太武帝の長城とか北齊の文宣帝の長域等いずれもこの性質の長城であって、
この八達嶺のは北斉の天保六年にできたもので、
史に「民百八十万を発して長城を築き、北夏口より恒山まで九百余里に及ぶ」とある。
周宣立帝もまた雁門から碣石(山海関)まで長城を修繕する、
隋煬帝も同様に築城ををしたので、
唐代にはおよそ現在の山西直隷両省の北境にある長城が大略はできていたらしい。



 その後明代になって元人を北に追うたけれども、
全くこれを討平したのではないから、歴代韃靼の入冦にくるしみ、
ことに正統年間英宗土木の大敗以後長城を守ることもっとも重く、
成化九年には余子俊が新たに河套の南に黄甫川から定辺に至る千七百余里の辺牆をつくり、
甘粛の嘉峪関から東山海関まで首尾一貫した万里城ができ上ったのである、
これすなわち今日の長城で明代には遼東、薊州、宣府、大同、山西、延綏、寧夏、固原、甘粛の九辺に各大将を置き屯兵を配し
中にも山海関、古北口、居庸、紫荊、雁門、偏頭に至る第一線を内辺として
堅濠塹壘今見るがごとき雄大な域壁とし、
さらに宣府大同二鎮の外に長城外辺を築き烽墩の制を立てて蟻の通る隙問もないことにしたのであった。



 嘉靖二十年暗達すなわち蒙古人の大に冦するや、翟鵬の議にしたがって、
壕を浚え垣を築き辺牆を修むること390余里、新墩を增すこと292、護墩堡14、建舍1500、軍を募ること1500人一人づつに50畒<モウ>を給して屯守せしめた
というような事例が『山西通志』や『明史』に無数にある。
余子俊の辺牆1770支里の如きも、軍を役する4万人とあつて明代は非常に巨費を投たものであつた。

 清朝になって喇嘛教を重んじて蒙古人の性情を柔げ、
一面蒙古王公と皇室の結婚政策によってその武断的思想を抑制し、
一面書籍の刊行を禁じて智識の開発を妨げてから、
当年の意気全く沮喪して臆病卑屈の民に化し、長城はついに無用の長物と化するに至った。のみならず今は鉄道の便によつて漢人の塞外に出づる者多く、
主客全く地を転ずることになったのである。
しかし将来果して現状を維持するや否やは神ならぬ身の知るよしもない。
民族の興亡と時代の変遷を追懷すれば遊子斷膓の感更にらに新たなるものがある。

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